(2)1歳半~4歳半までの子どもの心の成長

幼児期
①主観内自己の自覚(1歳半~2歳半)
②類内共同性の自覚(2歳半~4歳半)
規範―自己の抗争(3歳)
③共同性(規範)-主観性(自己)の統一(4歳半~6歳半)

主観性から自己が、類からは共同性が分化して意識されるようになり、やがて共同性の意識と自己の意識が、統一され受け止められるようになります。

1、主観内自己の自覚
自己確定(1歳半)
我をはる
 1歳半までの我のはり方は、選択力のない一方的な主張でしたが、1歳半をすぎると肯定―否定のどちらかを選択する形で現れます。
これは判断力ではありません。同意か異議のどちらかを選択するのがこの時期なのです。
パパがいつも座っているところへママが座ったりするとこの頃の子どもは怒ります。
これはこう決めたものだから変更はきかないという融通がきかないものです。
 いいだしたらきかない。 かんしゃくをおこす。すねる。ふくれる。ひっくり返ってごねる。いつまでも泣いている。など。

そのときの切り替えの方法は?
①強い圧力でその子に他者の意志を押し付けるやり方
強制的な強い意志を見せるとその子はびっくりし、おびえ、その巨大な意志に一気に同意する。

②何らかの新たな選択場所を提供する
靴を履かないでかんしゃくをおこしている子に、2つの靴を見せて「どっちを履く?」と言うとこっちと指さして履くようになる。
この頃のかんしゃくは、1歳半以前の一方的なかんしゃくではなく選択性を含んだものであるので、その選択性に訴えるのです。

②のやり方が理にかなっているのはよくわかりますが、大人の側に気持ちの余裕がないとついつい①のやり方になってしまいますよね。

一者意識
 自分の名前を呼ばれると「はい」と返事をするようになります。これは、一者として自分を意識することのあらわれです。

これは自分のことをOOちゃんと呼ぶことがわかったということではなく、ここではまさに自分を一人の人間として受け止めることができた根本的な現象です。これは同時に他者を一者として受け止められたことを物語っています。

他の子どもの後をついて歩いたり、追いかけっこをして遊んだり、友だちの名前が言えたりします。友だちと追いかけっこをするためには、友だちを一者として意識することが十分できなければなりません。こうして、他者を一者として受け止めることができる中で、自分もまた、一人として受け止めることが始まります。

あそび
 ままごとをして「どうぞ」と言ったり、人形をおぶったり、おもちゃの電話で「もしもし」と言ったりします。
これはそういうモデルが目の前にあってなされる場合もあれば、モデルなしで過去のことを思い出している場合もあります。
 それらに共通していることは、それをまねようとする意図の下にそれがなされるということです。

二語文
 1歳半~2歳ごろになると
  おうち ここ
  もっと ちょうだい
  クック ない
  これ なに 
等の言葉を使うようになります。
これは単に一語が二語になった以上の飛躍的な変化です。と村瀬氏は言われます。これを二語文と呼び二つの語の複合文だとするのはまったくの表面上の解釈ですと。
「OOはOOだ」と一方的に指示してくる内容に対して自己判断として「それは そうだ」とか「そうではないOOだ」という意志の対置のさせ方が「クック ない」という二語として現れてきているのです。

問い
 2歳ごろ「なあに」という問いかけが始まります。
「何」とは代名詞です。これはまさに、指示性の決定を自己の確定として受け止め直す努力そのものになっています。

形を認識する。(代表像の形成―同じ形がわかる)
 2歳ごろになると同じ図柄を見ると「同じ」「いっしょ」と受け止めるようになります。箱のくりぬき穴(パズルボックス)に自分から形を探して入れて遊ぶことができるようになります。これは多くの形の中から○は○、□は□
という同一の形を区別して選ばなければならない遊びです。

 はじめは、似たものを形に合わせるところから、子どもはその経験の中で急に○は○であることに気づきます。つまり、心の中で代表型を作り出し、代表型の相互の区別を立てるようになりはじめたのです。

 この代表像ができると、見立てあそびができるようになります。
ダンボールを自動車に見立てて遊ぶのは、ダンボールが自動車に似ているからではなく、頭の中に作られた代表型を現実(ダンボール)に転化して同じものと見ることができるからです。代表型とは、その対象物の大まかな特徴把握です。代表としての同じ形がわからないと、見立て手遊びはできません。

 私は、この見立て遊びができるようになるのは、想像力によるものだと思っていました。想像力ではなくて代表型が把握されないと見立てあそびにつながらないのですね。

②類内共同性の自覚(2歳半~4歳半)
子どもは、他者を発見した後共同性を発見します。
具体的には、友だち意識=仲間意識としての共同性の発見は4歳半を過ぎないとできません。まだ共同性を一つの対象として受け止めることはできないのです。この時期は、一人ひとりの他者の意志の受け止めができるようになるのです。それは自分もまた、一人ひとりの中の一人として発見することなのです。

自己像と演出
 共同性の発見は、ごっこあそびによって現れます。
ごっこあそびでは、まず、役割の変換が発見されます。役割の変換は、周囲の大人たちが見せる代表型(仕事など)をそれぞれに区別して、そうした立場に自分を置き換えて、それを演じてみせることです。

 ままごとなどで、父、母、赤ちゃんなどの役をとり、そのつもりであそぶというのも、単なる見かけの格好のまねではなく、まさにその役割を演出するというふうにあそびます。これは自分が他者になることであり、他者に自分が変身することです。

 そしてそれは、自分を一人の相手として対象にできることを意味します。自己が像として把握されるのです。

 ごっこあそびが出来ない子どもがいます。ごっこあそびが出来ないということは、自己と他者を一人ひとりの中の一人として受け止められないことを意味するのですね。

 自分を像として対象化されるようになる構造は、自分のことを「ぼく」「わたし」と呼ぶ過程にあらわれます。

 また、はにかみや恥じらい、あるいは誇示などの感情の持ち方にも現れます。
それまでは、人前で平気で踊ったりしていましたが、この頃になると「見られている」ということを意識してストレートには踊らなくなります。自分の姿を気にするからです。

 自分のできることを「見てくれ」とばかりに見せつけて,ほめてもらいたがる傾向も出てきます。これも自己の像に対する価値づけ=評価の現われです。

がまんの構造
 がまんができるようになるのは、一人の自分の意志に対して、もう一人の自分の意志を抑え抑制できる構造の形成です。

 本来のがまんができるためには、多様な自己、切り替え、移行、統一がしっかりできなくてはなりません。

 そのためには、様々な立場の自己を実現させる過程がまずなければなりません。多彩な自己の立場の主張―実現のプロセスがあって、その後ようやく統一の構造が実現できるからです。それが4歳半ごろです。怪我をしてぐっとがまんできるようになるのも4歳半を過ぎてからです。

3歳児の反抗
 自分の思い描く様々な自己像を実現しようとして、そういう多彩な自己を主張し始めます。こういう子どもの意図に対して、親の方から「あぶない」とか「きたない」とか言って禁止をかけると、親の意志と子どもの意志がぶつかって抗争がおこります。親から見ると反抗しているというふうに見られます。
 大人の手を自分の手から振りほどき、一人でドンドン歩いたり、まだ十分出来ないのに、洋服の着脱を自分でやりたがったり、一時期、他の子とあそばなくなって「一匹狼」になったりして、外との衝突が目に余るものになってきます。

 3歳児の反抗は、多彩な自己の主張であり、そのことを通して「がまん」というもう一人の自己を抑えることができることにつながっていくのでしょうか。

 カール・ケーニッヒは、これは自我の誕生する時なのではなく、自我の誕生の結果、危機の時がやってきたのだといいます。この反抗期に見られるのは高次の自我ではなくその死ですと。ここで登場してくるのが低次の自我で、これは生涯を通して私たちに付きまとうと述べておられます。

 この時、大人が子どもにどのように対応するかが問われてくると思います。子どもの思いを深く理解しようとせず、権威と罰を振りかざしていうことをきかせるようなことをすれば、自分を主張することをあきらめてしまったり、お母さんの前だけいうことをきく子になります。逆に子どもの言いなりになってしまうと、自分の主張を抑えることを学べず、がまんするということも学べません。

 でも実際の子育ての場では、どちらかになってしまうのですよね。子どもの主張を理解しようとしても、この時期の子どもは言葉で十分伝えることが出来ないので何を言いたいのかわからない時がたくさんあります。それでついつい、余裕のないときは権威を振りかざしてしまいます。また、子どもの反抗にあったとき、どうしていいかわからないお母さんもよく見かけます。おろおろしてしまって、結局は子どもの言いなりになってしまうのです。

 大きくなっても、がまんすることが出来ない、すぐカッとなる、自分の思い通りにならないとすねるなどの状態が続いてしまう子どもたちが増えています。

 カール・ケーニッヒは、大切なのは手助けとお手本と、やさしい指導と自然に出てくる寛容さですと述べておられます。

 これはなかなか難しい。大人の側に精神的な安定と余裕が必要です。お母さん一人に子育てを任してしまうのではなく、この時期からは特に、お父さんや、おじいちゃん、おばあちゃん、保育園の保母士や幼稚園の先生の暖かい見守りが欲しいですね。

物語ること
 2歳半~3歳ごろになると、長めのお話ができるようになります。

 共同性に気づくということは、いくつもの意志、いくつもの立場に気づくということであり、そうした多くの意志に気づくことは、意志同士を関係付ける構造に気づくことです。

物語るとは
 自分が語り手になるということです。語り手になるということは、自分が誰かの立場に立って、あたかも物事を見聞きしたかのように受け止めることです。
 3歳になるとお話を聞くのが好きになり、また、お話しするのが好きになります。お話とは、ある立場の話であることがわかるようになるからです。

 シュタイナー幼稚園では、毎日必ずお話の時間があります。いろんな人の意志、いろんな人の立場を体験することは、共同性に気づいていくことにつながるのですね。今の大人にとっても、様々な立場の人の気持ちを理解することは課題になっています。幼い時に、お話を語って聞かせることの大切さを思います。特に、昔話には、生きるための知恵や深い叡智が含まれているといいます。別の機会にじっくり学びたいと思っています。
 
2歳半~3歳ごろの嘘
お話をすることは、いろんな虚実に充ちた立場に立つことであり、いきおい、そこでは本当の話と嘘の話が入り乱れます。自分が行きもしない遊園地に行ったと話したりします。それは、他の人の体験がいつの間にか自分の経験と混同してしまうからです。嘘を言っているのではなく、他人と自分の体験を十分に区別できないからです。

ひとりごと
 村瀬氏は、子どもの独り言は、まさに子どもが共同性(社会性)に目覚める構造の中でしか出現しえないものだと述べておられます。独り言は本質的に共同性を含んでいると。独り言は社会性が退化したものではないと言います。言葉は、決してコミュニケーションの手段だけでなく自己表現の手段でもあります。
 子どもが独り言を言っているときは、様々な立場、様々な意志を行ったり来たりしながら自分の物語を想像しているのです。

配列=空間の発見
 2歳には2つが分り、3歳には3つが分ります。2歳半~4歳半までの子どもの数の観念は、せいぜい3つまでです。

 この頃の子どもは、意味は分らないまま、まるごと覚えることができます。数を100まで数えられてもそれは丸暗記に過ぎません。漢字をたくさん覚えたり、万国旗や世界の国々の名前を覚えるという子どもを、天才児と言われることがありますが、その中身は、ただ配列としての決められた規則を丸暗記しているに過ぎません。大人は、自己確定の入らない配列的なものだけに集中して付き合うことには苦痛ですが、子どもたちは苦痛どころか一種の楽しみにすらなっています。

 早くから、漢字や数字など様々なことを覚えさせる塾や幼児教育の場を見聞きしますが、ただ丸暗記しているだけなのだということを理解したいですね。

配列的なものとして、時間も構成されてきます。
時間の観念がしっかりとできてくるのは、4歳半を過ぎてからです。それ以前は、時間はまったくの飛び飛びの配列でしかありませんでした。3歳ごろに2ヶ月、3ヶ月前ごろのことをふいに言ったりすることがありますが、それは時間的な過去を思い出しているのではなく、場所的な、配置的な、空間的なものとして思い出しているに過ぎません。

 時間的なものの使われ方は、共同性に対する自己の位置づけがはっきり意識されることによってはじめて成立してくるものです。
 ある出来事が過去のことであり、それは現在のことではないというような時間性の区別は、現在を意識することができなければなりません。それは自己統一の構造がしっかり成立していないかぎり望めないことです。

身体像の分化
 自己が意志として現れると、同時に像としても現れるようになります。
これは自分の身体を漠然とひとまとめに捉えていた時期から次第に頭、手、足、胴体に分かれていることを意識できるようになったことを意味します。

 たとえば、2歳半を過ぎると、衣服の着替えが一人で出来るようになります。シャツに頭や手をどう通したらすっぽりかぶれるようになるか見当がついてきます。これは、自分の手足の像がつかめてくるからです。言い換えると、自分の体(手足)が自分の意志にそって使えるものとして対象化されてきたことを意味します。

村瀬氏は、この身体像の把握を身体図式の獲得と呼びました。

身体図式は、狭い意味で身体像だということになります。
身体像は、また、狭い意味で自己像でもあります。ごっこ遊びでお母さんになったりするのは、そうなりたいと思っている自己像が対応しています。

 身体像とともに形成される身体図式は同時に運動図式としても形成されます。

運動図式とは、
1歳半~2歳半では、
 しっかり歩ける、よく走れる、つま先で歩く、リズムに合わせて手足を動かす、高いところから飛び降りる、両足でとぶ、ものにぶら下がるなど。

2歳半~4歳半では、
 三輪車に乗ってこぐ、ブランコに立ち乗りする、はさみを上手に使う、衣服の着脱がひとりでできる、二人で相撲がとれる、こぼさないで食べられる、一人でトイレに行ける、一人で体を洗う、片足でケンケンできる、でんぐり返しができるなど。
 これらは、姿勢の維持から運動獲得へと移行している過程です。

 これらは、自分の実現すべき運動についての像をもっていること、もう一つは身体の各部の動きが分化していること。この二つが重なることによって、身体図式が細かく意識されるのです。

 理解の遅れる子どもが、いつまでも両足とびが出来ないのは、身体機能に問題があるのではなく、身体図式の細かい意識づけがいまひとつ成立しにくいところからきています。

 身体の各部分が分化して意識されると身体のそれぞれの各部分の感覚が敏感になってきます。
 手や足の身体の各部分が分化して意識されるとおしっこの感覚やウンコの感覚が自覚できるようになります。また、食べ物の好き嫌いが出てきたりするのも味覚の分化、過敏化です。

 トイレトレーニングを早い時期からすることは、その子の発達を助け、自立を促すのだという考えに長い間しばられてきました。オムツの洗濯も大変だったこともあるのですが。最近は紙おむつの出現で手間がはぶけ、早く、早くということが少なくなってきましたが…。
保育園では、生活習慣の自立という目標を掲げ、1歳を過ぎた頃から、オマルに一日に何度も座らせるということをしてきた経験があります。早くからトイレトレーニングをしても、体の各部分の意識がはっきりし、おしっこやウンコの感覚がわかるようにならないとだめだったんですね。
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by higuchi1108 | 2006-10-03 20:51 | 子どもの心の成長
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