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芸術教育・自由への教育

                    シュタイナー教育って何?
 ミカエル・カレッジでの2年間の教員養成プログラムは終了しました。教わったことの半分も皆さんにお伝えできていないのが現状です。今の私には理解できないところも多く、なんとなく分るけれどどのように伝えていいのかわからないというところもたくさんありました。シュタイナーの思想を学ぶには2年間ではとても無理です。一生涯学び続けるというぐらいの覚悟がいります。けれどもシュタイナー教育って、いったいどういうものなのと問われたときに私なりに説明できるものをお伝えできればと思います。

 シュタイナー教育というと
・芸術教育
・自由への教育
などと呼ばれています。

何故、芸術教育なのか?
 14歳からのシュタイナー教育という本の中にも、体育、音楽、絵画制作、オイリュトミーなどの教科をおろそかにしてはなりません。という文章が常に繰り返し出てきていました。小学校のメインレッスンにも、算数や地理や歴史といった授業でも歌をうたい、詩を朗読し、お話を聴き、絵を描きという授業がなされています。

 先日、仲正雄氏(ドイツで治癒教育家として活躍されている)の講演を聞く機会がありました。氏はその中で
 宗教(善)    芸術(美)    学問(真)
この3つについて話しをしておられました。
昔は宗教が権威を持っていました。ガリレオは地動説を訴えたので宗教裁判にかけられました。今の時代は学問が権威を持っているといわれます。
学問的に証明されないかぎりそれは正しくないとみなされます。学問的に証明されていないものは学校で教えることはできません。でもこの世の中わからないものだらけです。特に人間の心なんて何も科学では証明できません。

 仲氏は、芸術が権威になることはないといわれます。
社会が貧しくなると芸術が真っ先に切られます。また、機能が優先されている社会でも芸術が削られます。今の高校は音楽や美術は選択になっています。

 また,仲氏は人間の中に宗教心があれば周りのものと一つになろうとし、学問は周りのものと距離を置こうとするといわれます。今の時代は宗教が消えて学問が中心なので人と人との間に距離が出来ているのですと。
一つになってしまって個がなくなってしまうことも危険です。かといって人との距離がありすぎると孤立してしまいます。
芸術は宗教と学問の間にあって、その中でどちらにも影響しあいバランスを取っているのだというのです。

 意志  感情  思考

という心のとらえ方ではこの3つをバランスよく育てることが大切だといわれています。現代人は思考に偏りすぎています。バランスをとるため、その真ん中にある感情を育てることが重要になってきます。感情を育てるためには芸術が欠かせません。

 世の中のものはすべて対極があります。小林直生氏(キリスト者共同体の祭司)の講演録に対極するもののどちらかに偏ると否定的な面が現れると書いていました。
たとえば

 けち       浪費
劣等感      思い上がり
杓子定規     無鉄砲
冷酷        感情過多
現在執着     現実逃避

 私たちの健康を考えたときも、神経感覚系や四肢代謝系に偏ってしまうと病気になります。芸術は両極のどちらにも働きかけてバランスを取ってくれるものなのですね。

 では、自由への教育とは何か?
 シュタイナーのいう自由とは、自分の思い通りに何でもできるというものではありません。「自由の哲学」の本から学んだことは、権威からの解放と倫理的な態度です。

 「自分が自分の行為の動機・理由付けを自分の外に置いた瞬間にそれは非倫理的な行為になる。自分がその行為に対して愛情を持つことができるならば、それは倫理的・道徳的な行為になる。」

 というものでした。権威のある人や社会的に偉い人が言ったからするとか、社会が求めているからするとか、誰々のためにとかではなく、自分が好きでたまらないからするのです。それが倫理的・道徳的な行為になるというのです。いくら立派な行為をしたからといって、その行為が好きでやっているのでなければそれは偽善になってしまいます。自分が愛した行為をするときは、誰にも文句は言わないし責任も取れます。自分の考えを他人に押し付けたりしません。他人の意見も受け入れられます。何より、その人は幸せな人生を送れます。そのことの結果として人々の役に立つような行為が出来ているのだと思います。

 シュタイナーはこのような、「自分の好きなことは何か?」を見つけることができ、それを行うことが出来る子どもに育てること。そのことを教育を通して育てようとしたのではないかと思います。ここが、シュタイナー教育が自由への教育といわれるところなのだと思います。そして、自分の好きなことを見つけそれを行うことができるためには、意志、感情、思考のバランスが必要なのですね。

 次に、教育を行う側の大人はどうあるべきなのでしょう。
シュタイナー教育の方法論を学び実践できる能力を身につけることも大切なこととしてありますが、その根底に流れているシュタイナーの思想を抜いてはうわべだけのものになってしまいます。シュタイナーは教育を行う根底には次の2つのことが大切だと述べています。

・一人ひとりの子どもは、かけがえのない大切な存在だということを認識する。
・自分自身の精神の成長を目指す。

 これは当たり前のことといえば当たり前のことなのですが、ただ口先だけで言うのではないのです。シュタイナーの深い思想がこの中に含まれています。

シュタイナーの人間観を学びました。
 人間はとてつもない長いときを経て、肉体、魂(心)、霊(精神)の3つからなる存在になったというのです。3つのうちの霊(精神)は、他の誰でもないその人だけの核となるものです。その霊(精神)は死んでも無くなるのではなく、幾度も生まれかわり、その人の核である精神の成長を促すのだといいます。死後、肉体のなくなった魂と霊は精神界にいき生前の行いを悔い改めるのだそうです。そして、その人の霊は次の生で前世の償いをしようという使命を持ってまた地上に生まれてくるのだというのです。

 このようなことは証明できるものでもなく、学問が中心になっている現在においては受け入れられないこととしてあります。

 ワルタービューラーという人が書いた「人智学の死生観」という本を読みました。
「私は何のためにこの世に生まれたのだろう。」
「私は生きていることに意味があるのだろうか。」
彼はこの問いに答えが見いだせないで苦しんでいる人々が増えているといいます。

 脳に障害を持ったり、知的障害児として生まれてきた子どもたち、あるいは精神障害のあるものとして生涯を養護施設で過ごさなければならない人は、その目標を設定したり、それを自分のものにする能力を全く欠いているのでしょうか。その人たちに人生の意味があるのでしょうか。治癒の見込みのない生命は生きている意味がないのでしょうか。健康で生まれる人がいるのに、生まれつき虚弱な人がいるのは何故なのでしょうか。この世には不公平が支配しているのは何故なのでしょうか。

 この本の著者は、これらのことが神の不在、無宗教を助長し、心が満たされない不安な状況を強めているといいます。そして、人間の核となる精神の再生を可能なものとみなさない限り、人生に意味と運命の謎を徹底して考えたことにならないと述べ、人生の再生は無数の謎を解くことができ、心を鎮め充実させる感情を引き起こしてくれるのだといわれます。

 この繰り返される地上での生の本当の意味は人格を持った一人ひとりの人間がさらに発展し高められていくことであり、来るべき地上での生を眺めることは、この世での様々な辛苦に意味を与え身に受けた不公平をも希望によって乗り越えさせてくれるのですと。

 ビューラー氏は、この世で障害をもって生まれた人々は来世では健康な体を持ったものとして生まれ、その人に対して行ってきた様々な援助や介護は、返礼をするという強い意欲をその人の中に呼び起こします。この障害は、厳しい試練に耐えて生きぬかれた人生の体験となると共に、新しい能力とさらに高められた自己の発見のための原点を形作るのですと述べています。

 また彼は、色々な人種やいろいろな国に生まれ変わるという再生の思想は、国家主義、民族主義を乗り越えます。個々の人間の持つ遺伝、血統、そして過去のしがらみをはるかに越えて、人間存在における霊的な中核に私たちの注意を向けさせます。再生の思想は、人類を一体ととらえる考え方を可能にしますといわれます。

 また、地球は決して「後は野となれ山となれ」と考えて好き勝手に出入りできる宇宙船ではありません。それは数十億年をへて完成し、自然界の完璧な生態的均等の元で計画され、さらに心をこめて整えられた愛の力に呼び招かれた「私」としての実在する人間の発展の場なのだ。という地球に対する責任感を生み出します。

 さらに著者は、中世から近世への目覚しい変転をコペルニクス的転回と呼ぶのだそうですが、再生とカルマの認知は、人類と地球との救済に向けた霊的な意味での同等な転回をもたらすでしょうと述べています。

 輪廻転生という思想は、私たち一人ひとりの人生に意味を与えてくれるばかりか、今、地球上で起こっている様々な問題に答えを見出すことができ、私たちがどのように行動するのかを明確に指し示してくれるものだと思います。

 障害者を「価値ない生命」とみなし、ガス室へ送ったナチ政権のことは有名ですが、現在でも治癒の見込みのない病気を持った人に対する安楽死の問題や生まれる前に障害があることが分かると堕胎することが認められる法律があること。また、重い障害がある子どもを親が殺してしまうこともあります。
その人たちが生まれ変わったときには、今度は重い障害を持った人々に対して献身的に尽くす愛にあふれた人になるのだという認識があれば、価値なき生命として抹殺することなど許せるはずがありません。

 また今でも、民族の違いや宗教が違うということからくる争いに終止符を打つことが出来ない状況があります。自分自身が今度生まれるときには必ず違う人種、国に生まれるのだとすると、民族間で争うことなどおろかなことです。

 また現在、環境問題は深刻さを増しています。次に生まれる子のために地球をきれいにしておかなければと唱えても、自分のことではないと思うと所詮人事で今の便利な生活の方を優先してしまいます。しかし、死んだら終わりではなく、又、再びこの地上に生まれてくのだとすれば、地球を大切にしないではおれなくなります。

 私たち生きているものにとって、「死」は避けては通れないものです。誰でも必ず「死」はやってきます。死んだらどうなるのか、死んだらすべて終わりなのか、分からないことには不安や恐怖がついてきます。元いたところに帰るのだという思いがあれば不安や恐怖もなく安らかに最後を迎えられえるのではないでしょうか。また、家族や友人たちの悲しみも和らぐのではないでしょうか。

 この本の著者が言うように再生の思想は、現在の世の中にコペルニクス的転回に匹敵する転換をもたらしてくれると思いました。
しかし私も含めて、今日の自然科学に規定された考え方に立つ現在人には、再生の思想を受け入れることはなかなか難しいと思います。

 このような人間観を私自身どのように受け入れたらいいのかずっと悩んできました。本当のことと思いたいという気持ちはありましたが確信を持つことができずにいました。
 ところが突然昨年の12月に夫の死と遭遇することになってしまいました。死んだらもう終わりなのでしょうか。全部なくなってしまうのでしょうか。感じたり、考えたりするための肉体がないのですから精神も魂も存在しなくなるのでしょうか。まだこの世でやらなければならないことが残されていたらそれはどう精算されるのでしょうか。
このように考えるのはとてもつらく、肉体はなくなっても、目には見えなくてもどこかで存在して私を見守っていて欲しいと思うのです。

 そんな時、6歳になる孫の乃海が「じいちゃん、お月様にいてるねんで。ノアちゃん見た。」というのです。この言葉で私は確信を持つことが出来ました。小さな子どもの言うことなんてと思われるかもしれませんが、小さな子どもの言うことだからこそ信じられるのです。まだ精神界に近い存在である小さな子には実際に見えるのだと思います。
シュタイナーの思想は、親しい人との死別を体験した私の心を本当に慰めてくれるものになりました。

「教育の基礎としての一般人間学」の本の第1講のシュタイナーの言葉です。

 私たちの課題は、知的情緒的なものではなくこの上なく道徳的精神的なものです。あらゆる領域で人間の利己主義が支配しているこの世相で、私たちは戦いを挑まなければなりません。それには、誕生について、死後の進化について理解を深めること。意識的になることが求められます。生まれる以前に高次の存在たちによって配慮されてきた事柄を、今、教育によって継続されなければならないということを私たちは意識したいと思います。
                                            R シュタイナー

 子どもたちが好きなことを見つけるということは、その子のこの世での使命を見つけるということです。教育によって一人ひとりの子どもの使命を見つける手助けをするのだということなのですね。

 私自身も使命をもって生まれてきたのだということを改めて自覚したいと思います。あと何年生きるか分かりませんが、そのことを意識しつつ自分自身の精神の成長を目指すことができればと思っています。

 私はこれから大阪の地でシュタイナー教育に基づく乳幼児の保育の場を作ることを目指したいと思っています。様々な困難が待ち受けていると思うのですが、シュタイナーが学校を設立するに当たって教師たちに向かって言われた言葉、

 「その行為は日常的な行為なのではなく、宇宙秩序のための一つの祝祭行為なのだ。」
という言葉をかみ締めて歩んでいきたいと思います。

 皆さん、小さな力しかない私ですがどうか応援してくださいね。これからも、保育の場作りのこと、勉強したこと、感じたことなどブログに記載していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
by higuchi1108 | 2008-04-26 10:21 | シュタイナー教育って何?
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