人間の本質

皆さん、こんにちは。
 長い間ご無沙汰してしまいました。夫が他界して一年が過ぎました。この一年は様々な思いが襲いかかってくる一年でした。夫がいなくなった寂しさや孤独感、悲しみといった感情から必死で逃げようとしていた私です。でも、逃げれば逃げるほどそういった感情は追いかけてくるのです。そんな時、ミカエルカレッジで共に学んだ友人がこんな詩をメールで送ってくれました。

         ゲストハウス
   人間という存在はみなゲストハウス。
   毎朝、新しい客がやってくる。
   喜び、憂うつ、いやしさ、そして一瞬の気づきも、
   思いがけない訪問者としてやってくる。
   訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい。
   たとえ、それが悲しみの一団だとしても、
   できる限り立派なもてなしをしなさい。
   たとえ、それが家具のない家を
   荒々しく駆け抜けたとしても。
   もしかすると訪問者はあなたの気分を一新し、
   新しい喜びが
   入ってこられるようにしてくれるかもしれない。
   暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪魔がやってきても、
   扉のところで笑いながら出迎え中に招き入れなさい。
   どんなものがやってきても感謝しなさい。
   どれもはるか彼方から案内人として、
   あなたの人生へと送られてきたのだから。

 この詩を読んだとき涙が出て止まりませんでした。
逃げるのではなく自分の気持ちと向き合わなければ今の状態から抜け出せないと思いました。そこで、年末は一人で掃除をしながら様々なことを考えました。最初は泣きながらの掃除でしたが…掃除力ってすごいですね。家の中が少しずつ、きれいに片付いていくごとに自分の気持ちもごちゃごちゃでわからなかったものが少しずつ整理がついてきました。

 そんな時、はっと気づいたのです。
私が流している涙は夫のことを想って流しているのではないということに。一人ぼっちで、寂しく、悲しい思いをしている自分がかわいそうで惨めで泣いていたのです。結局は自分のことばかり考えていたのですね。それと同時に私は今まで夫に守り支えてもらっていたのだということにも気づかされました。

 自分の気持ちと向き合うとは、寂しい、つらい、悲しいと思っている自分とはちがうもう一人の自分がいて、そういった状況を客観的に眺めることができるということなんですね。
それからは、何故かシュタイナーの著書を掃除の合間に読むようになりました。
すると、今まで、難しい、わからない、興味なしと思っていた事柄が「ふーん、そういうことなんだ。」と思える箇所が増えていることにびっくり。
そして、私が今、まだ生かされているということは、この世でしっかり自立した生き方を学びなさいということなのだと思えるようになったのです。

 自立とは、無私の心を養うこと。

 1月6日の朝日新聞に「利益追わぬ投資を」という見出しでバングラディッシュの経済学者ムハマド・ユヌス氏の取り組みの記事が載っていました。彼は、今、世界中を吹き荒れている金融危機を乗り越えるために、社会問題に取り組む新しい企業モデルを提唱しています。氏は、「私たちは資本主義を誤って解釈している。ビジネスとは金儲けのことで、利益の最大化がその使命という。この解釈は人間を金儲けの機械と見なす。」と述べ、「すべての人間には利己的な面と無私で献身的な面がある。私たちは利己的な部分だけに基づいて、ビジネスの世界を作った。無私の部分も市場に持ち込めば資本主義は成功する。」というのです。
 氏の提唱する社会的企業とは、投資家は特定の社会問題の取り組みに投資します。社会的企業は損失も配当もありません。社会に貢献する目的を持つ会社なのです。氏は、具体的に乳製品や飲料水の会社を設立されていて、目的はお金を設けることではなく、安全な水の提供や栄養不足の子どもたちの解消にあるのです。

 氏の「私たち人間には、利己的な面と無私の面がある。」といわれた言葉が印象的です。氏の提唱する新しい企業は、人間のエゴイズムをどこまで克服できるかが成功への鍵ですね。でも、世の中には自分のことはさておいて人のために一生懸命働いておられる方がたくさんいます。何が彼らを動かすのでしょうか。

 シュタイナーはこのような人間のあり方をどのように洞察しているのでしょう。シュタイナーの代表的な著書「神智学」をもう一度読んでみました。

 はじめに、「神智学」とはどういうものか。シュタイナーは
 人間が見上げることができる最高の存在を人間は神的なものと呼びます。そして、人間は何らかの方法でこのような神的なものとつながるという観点から、自分自身の最高の使命を考えなくてはなりません。
そのために、自己の本質と使命を人間に対して明らかにする感覚的なものを超越した知恵を「神的な知恵」、すなわち「神智学」と呼ぶことができます。と述べています。

人間には3つの領域があるというのです。
 第一に私たちは、触れたり、嗅いだり、味わったり、見たり、聞いたりして、つまり体を使って知覚することが出来る世界に属しています。

 第二に私たちは、感覚を通して知覚したものに美しいとか醜いとかいう感情を持ちます。私のように夫と死別するような事柄に出会うと、悲しい、つらい、寂しいという感情が押し寄せてきます。

 でも人間はそれだけではないのですね。色々な事物に出くわしたら、そのことについて考えます。シュタイナーはこの考えることのできる部分を人間の自我あるいは霊、精神と呼んでいます。

 そしてこの自我の中にも二つの領域があるのです。
 一つは、感情の奴隷になっている自我です。快感、不快感、あるいは衝動や本能、情熱などの感情に仕える自我です。感情とはその人個人のものです。個人的なものですから利己的になるのです。幼い子どもの自我もこのようなありかたをしていますね。シュタイナーは、物質主義的な文化の本質は思考が感情に仕えるという点にあると述べておられます。思考力の大部分はこの感情の欲求を満たすために使われていると。

 もう一つの自我は、感情に振り回されない、感情を乗り越えた思考です。自我が感情を支配するのです。感情を乗り越えて思考するとき、人間には物事の本質、真理、善が明かされるのだといいます。そして、人間は明らかになった真理や善に従って生きることも出来るのですと。これこそが私たちが目指すべき方向であり生きる意味なのだとシュタイナーは言います。

 いつも感情に振り回されている私です。でも、私の中にも感情を支配することができる本当の自分がいることを信じて歩んでいきたいと思います。


 さて、9月からオープンした「くすのき園」のことです。その後の報告をと思っていたのですがなかなか出来ずにいました。
皆様から暖かいエールを送っていただき、園児2名でスタートすることができました。ところが、オープンディーの次の日、両隣からうるさいと苦情が来てしまいました。家賃も安く趣のある家なのですが、なにせ古い長屋です。隣と壁一枚しか隔たりがないのです。音が響くのは当たり前だったのですね。積極的に園児を増やすことも出来ず、また、新たな場所をと考えると気持ちが落ち込んでしまいました。市内で一戸建ての家を借りようと思えば家賃はたかいし、家はどこも密集していて同じような苦情は避けられません。

 都会の中で子どもの施設作りなんてやっぱり無理なのかと落ち込む私を支えてくれたのは子どもたちでした。子どもと一緒に過ごす時間は楽しく、日に日に関係性が深まる喜びを感じています。
 また、昨年9月からはじめた学ぶ会や手仕事の会、体験保育も継続して参加してくださる方も出来、充実した時間になっています。本当に感謝です。
今は、あせらず日常の取り組みの中で方向性を見出していこうと思えるようになりました。皆さん、見守ってください。
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by higuchi1108 | 2009-01-12 11:21 | 神智学入門
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