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自由の哲学

                         自由の哲学
 タイン・チェリー氏による「自由の哲学」の講義が3週間ありました。「自由の哲学」はシュタイナーが一番初めに書いた本です。タインさんはこの本はシュタイナーの著書の中でももっとも重要な本で人智学の基礎がすべて書かれてあると言われます。この本を正しく理解できたかではなく、学びとったことをエッセンスとして感じることが大切ですとも述べておられました。私は哲学書など読んだこともなく、この本を手にして数ページ読んでみたのですが、とても難解で書かれてある意味がさっぱり分からずお手上げの状態でした。タインさんはこの本を何十回と読み、自分なりの理解を深めていかれたとのこと。タインさんは分かりやすく様々な例を示してくださりながら講義をしてくださいました。一度も読むことが出来ない私にとって、本当に助けになりました。

 私たちはどんなものにも束縛されることなく自由に生きていきたいと願います。子どもたちも自由でのびのび育って欲しいと願います。私は保育所に勤めていた時、子どもを管理するのではなく出来るだけ自由にのびのび育てるためにはどうすればいいのかということをいつも考えさせられていました。のびのびした子どもを育てるために保育方法をめぐって様々な試みをしてきました。ある時は、決して叱らず自由に行動させてみようと試みたことがあります。子どもたちは、最初は恐る恐る悪さをしていましたが何をしても叱られないと分かるやいなや、花壇の花は引きちぎる、保育室の廊下に水をまくなどやりたい放題、無法状態に陥ってしまいました。こんな状態の中黙っていることが我慢できなくなり、結局この試みは3日と持ちませんでした。いくら自由でも道徳的な行いが出来なければただの自分勝手です。これは自由でもなんでもなく放任に過ぎないことを悟りました。集団の中で生活していくためには、ルールがありそれを守らなければならないことを子どもたちには伝える必要があります。

 そこで、今度は個々の子どものやりたいことを優先させるのではなく、大人が考え出したよい集団の姿を子どもたちに伝えるという試みをしました。たとえばハンディキャップを持った子や自分より小さい子には手助けしてあげるような子どもに育ってほしい、自分たちが使う部屋の掃除や皆の食事の用意(机の上を拭いたり、食器を並べたり)が子どもたち同士で協力して出来る子になって欲しいなどです。そんな中で積極的に大人の望むような行為をする子もいれば、大人の顔色を伺ってする子もいます。もちろん大人の思いなどどこふく顔で何にもしない子も出てきました。結局、大人が望んだ良い子ども像に縛られてしまい子どもを管理するということになってしまいました。見た目に、大人が望むようなよい集団になっていたとしても、心からそうしたいと思って行動している子どもばかりではないのです。そのような中では真の道徳心は育ちません。

 「自由と管理」、「個人と集団」、「道徳心」。このテーマはずーと持ち続けていたものであり、「自由の哲学」を学ぶ中で自分なりの答えを見出すことが出来ればと思っています。
 もちろん、大人の場合と子どもの場合は違います。シュタイナー教育は「自由への教育」といわれています。自由な人間を育てるためにはどのように子どもを導いていけばいいのか、自由とはそもそもいったいどういうことなのか、考えていきたいと思っています。

人間には自由があるのか?
 シュタイナーは精神的な活動だけが自由につながっているといっています。
私たち日本人は民主主義の国であり好きなことを考え好きなことが出来ると思っています。
 しかし多くの思想家は人間には自由がないといいます。私たちはプレッシャーや欲望を持ちます。そんなときは自由ではありません。生きるためには必要なものを食べなければなりません。また、個々人は自分の育った環境や教育によっても影響を受けます。自分の自由な意志で決断できないときがたくさんあります。しきたりや、習慣に左右され本当に思うことをすることが出来ません。

 しかし、シュタイナーは自由がないのは決断するとき、本当に目覚めていないからだといいました。たとえば、他の人がしているから私もするというのは、完全に目覚めていないからです。動機を本当に認識できれば完全に目覚めることが出来ると。

 動機はどこから来ているのか。
 動機はどこから生まれたのか。

 行動は何かの動機から生まれます。目覚めて行動することによって自由になれるとシュタイナーはいいます。
目覚めるということは思考するということです。真の思考が自由につながるのですと。


 では、真の思考とはどういうものなのでしょう?

思考の仕方には2つの考え方があります
 一元論と二元論です。一元論の中には、この世の中は物質だけが存在し精神的なものは存在しないという考え方と、物質的なものはなく精神的なものだけだとする考え方があります。二元論的な考え方は、精神と物質は別だということを究極にとらえる考え方です。
シュタイナーは、すべては一つから始まったのだと述べています。人間は自分というものを認識することが出来るようになったため、自分と他者、精神と物質というように分裂して考えるようになったのです。思考は二つに分裂してしまっているものを一つに統合させることを可能にするのだと。これが人智学的一元論の考え方です。

思考とは 
 思考についてタインさんは次のように説明してくださいました。
思考は知識の出発点です。ただ見ているだけではただの体験でしかありません。生まれたばかりの赤ちゃんは、考えるということがまだ出来ないので見たものをすべて受け入れ、ただひたすら体験をしているだけです。見たものについて考えるようになると思考の始まりです。見えるものは与えられたもので、選ぶことは出来ませんが思考は私自身の活動です。思考することによって知識を得るのです。思考は自由です。強制されるものではありません。思考は強い意志をもって行うものであり、意志の行為は私たちの自由な活動です。思考とは、精神的で私の活動なのですと。

 私たちは、何かを知覚します。そのことについて考えます。そこから概念が生まれます。ものの本質をとらえられる思考を概念といいます。乳児は成長するにつれて、自分と世界は違うということがだんだん分かってきます。いろいろなものをみて観察します。ワンワンとほえるものは「犬」というものだということが分かります。ワンワンとほえるものは、白い色のも、黒い色のもいる。それらをひっくるめてみんな「犬」というんだという概念が作られます。概念は見たものを思考することによって生み出されます。

 見たものを概念化するときには、知覚する人が重要になってきます。
見たものは人それぞれによって違うからです。木を遠くから見るのと近くから見るのと違います。遠くから見ると木は小さく見えるし、近くで見ると大きく見えます。また、近視の人が見るとぼやけて見えます。葉のついてない木を同じように見ても、一人の人は枯れてしまって寂しげだと思うだろうし、もう一人の人は新しい芽を発見し春の訪れを感じるかもしれません。そのときの感情やその人の気質によっても印象が違います。見たものが人それぞれで違っていたらそのものの本質にはたどり着かないのではないかという疑問が出てきます。

 シュタイナーは知覚し、思考し、そして概念が生まれる。このプロセスを何度も何度も繰り返すことによって真実にたどり着くのだといいます。調度、子どもが成長していくプロセスと同じです。赤ちゃんは母親がいなくなると泣きます。それは赤ちゃんの中に母親の像が描かれているからです。それが父親のイメージ、木のイメージ、犬のイメージと広がり概念化します。それを繰り返すことによってどんどんまわりの世界を知っていきます。体験が豊かであればあるほど、それが子どもの内的な世界を作り出していくのです。私たちも、知覚したものを思考し概念化する作業を繰り返し行うことによってよりそのものの本質に近づくことができるのですと。

では、道徳と思考はどのように関係しているのでしょうか。
 道徳的な行為は行動するときの動機に関わっているとシュタイナーは述べています。動機が本能的(性欲、食欲、喉の渇きなど)なものか、社会のルールやしきたり、習慣からしているのか、自分の好き嫌いでしているのか確認する必要があります。
社会のしきたりや習慣、本能や思いつき、そのときの感情などに左右されるのではなく、よく考え、その事柄を概念化させた上で行動に移すことが出来たなら、私たちは自由な行動が取れるといわれます。

 自由な思考が私たちの行為の源になっていれば、私たちの行為は自由であり、このときに道徳的な行為が出来るのです。
それと同時に、自分自身がその行為を愛していることがとても大切なことだといいます。道徳的になるためには、自分の行為を愛するべきだというのです。

 自由な人間の法則は、自分の行為を愛することです。

自分の行為を愛するとはどういうことなのでしょう。
 自分の愛することをするだけでは利己的になるのではないかという疑問がわいてきます。このことについてタインさんは次のような例を話してくださいました。

 思考せずに行動することは自分の愛すべき行動ではないといいます。
たとえば、お酒をとても愛しているという人が毎日毎日バーに行ってお酒を飲みます。そして酔っ払って家に帰り家族に暴力を振るいます。これは道徳的な行為ではありません。「お酒を飲むことを愛してる」。それなのにどうして道徳的な行為ができないのでしょう。道徳的な行為は私(自我)が決めることです。そしてはじめて自由になれるのです。お酒を飲むことは私が欲しているのではなく、体が欲しがっているのです。本当の私(自我)ではなく物質的な体が欲しているのです。

 本当に自分の行為を愛することが出来たら、他者も自由に生きることや他者の自由も理解することが出来るのですと述べておられました。


 人間はまだ半分自由で半分自由でないといいます。それは、知覚する内容も人によって様々ですし、個性や気質、その人の育ち方、教育、思考能力の差、体の状態が良いか悪いか、豊かな人生を歩んでいるか貧しいのか、そのときの感情のありかた、ストレスをためているのかリラックスしているのかなど様々な状況から判断せざるを得ないからです。なかなか自由に思考することが出来ないのが現状です。

 私たちは、自分自身が不自由な人間であることを自覚し、それを克服しようと試みたとき真の思考が出来るようになるのかもしれません。知覚したことを思考し、そのことを概念化させ、それが動機となって行動できたとき私たちは自由になれるのです。

概念化するとはどういうことなのでしょう。
 このことについても、タインさんは次のような例を話してくださいました。
物乞いする人にお金をあげるという行為は道徳的な行為なのでしょうか。お金をあげる行為がいいのか悪いのかよく考えないであげてしまっています。見たことを思考し概念化されていないのです。お金をあげた人の心の中では、物乞いする人を邪魔だからどこかへ行って欲しいと思っているかもしれません。あるいは人間として尊重していないのかもしれません。
すぐにお金をあげるのではなく、貧しい人を知って、その人が自立して生活できるようになるためにはどのようにすればいいのかを考えます。その人が自立できるためには、職業につくための技術を身につけるような手助けが必要だという考えが生まれるかもしれません。そしてそれを促すための行動に移す。これが概念化して行為するということです。

道徳的な行為は
・本能や感情、個性や気質、体のあり方などから自由になること。
・自分の行為を愛すること。
・概念が動機になること。真理に近い概念は最も道徳的。

二元論的な考え方では
 人間は行為するとき必ず原因があると考えます。植物はまず種を蒔かないと根が出ません。根が出て花が咲きます。因果関係があるという考え方は自然の法則です。シュタイナーは自然の法則は人間にはあてはまらないといいます。自然の法則は法則なので行為の選択はできません。最初に原因がありその結果があるというのはもう決まったこととしてあります。人間は自分が行ったことがどのように影響するのかを考慮に入れて行為することが出来ます。行為の影響を考慮に入れることができるのです。
人間には自然の法則に従わざる得ない部分もありますが、思考して自由に選択することもできるのです。

 タインさんはこのことについても次のような話をしてくださいました。
お腹がすけば何かを食べるというのは私たちの持っている本能です。自然の法則です。ベトナムでは戦争中、たくさんの人が難民になって小船に乗って他の国を目指しました。船の上で飢えに苦しんでいたとき、死んだ人の死骸を食べて生き残った人たちがいました。
また、とても貧しい母子がいました。二人ともとてもお腹がすいて死にそうになっていました。パンは一切れしかありません。そのとき母親は自分の飢えを我慢してでもそのパンを子どもに食べさせました。
 私たちの中には本能に打ち勝ってでも、自分が飢えていても、子どもに食べ物を分けてあげることができる能力を持っているのです。


道徳的想像力
 私たちは見たものを思考し概念化しても、そのことを行為に移せないときのほうが多いのではないでしょうか。今、地球規模で環境破壊や温暖化が大きな問題になっています。何とか食い止める方法はないかと多くの人が考えています。しかし、私も含めて実際に行動に移すことはなかなか出来ません。行為に移せない人をシュタイナーは、「芸術作品がどのように作られなければならないか巧みに説明はできても、自分では何も生み出すことが出来ない批評家に似ている」と言っています。自分の理念を具体化するためには道徳的想像力が必要だといいます。道徳的想像力とは、自由な精神にふさわしい行動の源泉なのだと。行為に移すためには、どのようにすれば理念が実現するのかというイメージを持つことができなければなりません。具体的なイメージを持ち、それを行うんだという意志が必要です。シュタイナー教育では、想像力や意志を養うことに重きを置いているのもこのことが理由だったのですね。
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by higuchi1108 | 2007-03-03 13:09 | 自由の哲学

自由の哲学

個と類
 私たちは、生れると同時に人種や家族、男性、女性などどこかのグループに属しています。これらは、生まれたときに与えられたもので選択することはできません。一つ一つのグループにはそれぞれ特徴があります。自分の属するグループの特徴は自分自身も持っています。社会の決まりやしきたり、習慣といったものの影響を受けています。

 シュタイナーは類による評価がもっとも頑固に行われているのは性に関する事柄だと述べています。あまりにも相手の性の一般的特徴を見、個的な特徴を見ようとしないといいます。その中でも女は、女として生まれつき持っている課題や欲求の一般通念によってしばられていて個人の個性が尊重されていないと。女であるとは何を意味するかを決めるのは女自身でなければならないといわれます。シュタイナーが生きた100年前の状況のなかでこのような思想をもっていた彼に共感を覚えます。現在ではこういった固定概念はなくなりつつありますが、多くのアジヤの国やイスラム教徒の国では女はこうあるべきというものに縛られていると聞きます。日本でも最近まで男は外で働き、女は家事育児に専念するというのが一般通念でした。今は女性も外で働くことは一般的になっていますが、女性が子どもを産んでも働き続けていく困難さは今も続いています。ついこの間も、厚生労働大臣ともあろう人が、「女は子どもを産む機械だ。」といって物議をかもしていました。
 シュタイナーは、全人類の半数が人間にふさわしい生き方をする社会こそ、社会が進化していくために不可欠なのですと述べています。

 私たちは一人では生きていけません。どこかのグループに属さないで生活することは困難です。この社会の一員として生きていくためには、ルールや決まりがあり守らなければなりません。
 私たちは、個人として立ちたいと思う気持ちと類になろうという気持ちが二つあるように思います。子どもの成長を見てみますとこの二つの葛藤が常にあります。いわゆる反抗期といわれるものがその葛藤の現われなのではないかと思うのです。

 最初の反抗期は3歳ごろに訪れます。それまではなんでもお母さんにされるまま従っていたのが、お母さんが着せようとする服が気に入らないといって駄々をこねたり、自分では出来ないのにやりたいといったり、自分の思い通りにならないとひっくり返って泣きわめいたりします。3歳ごろになって自己意識が確立し個を主張するようになったのですね。保育園でもこの時期の子どもは、おもちゃの取り合いなどでよくけんかが起こります。

 4歳半を過ぎるころになると共同性というものを意識できるようになります。共同の場での身の振り方、自分はこうしたいけれど皆の中ではこうするということが分かってきます。それは、「大人がこのようにするのです。」と教えたから出来るようになったのではないと思うのです。子どもには個になりたいという思いと、皆と一緒に遊びたいという気持ちが二つあるのです。友だちと遊ぶためには自分を主張していたのでは一緒に遊べません。自分が欲しいおもちゃも譲り合って使わないと楽しく遊べません。「友だちと一緒に遊ぶことはとても楽しいこと。一緒に遊ぶためには、欲しいという気持ちを我慢して貸してあげなくては。」という気持ちが生まれてきたのだと思います。

 6歳ごろになると、ルールのあるあそびができるようになります。「こんな風にしてあそぼうよ。こうなったら負けだよ。」というように個人のルールではなくて、皆が決めたルールに従ってあそぶということが出来てきます。自分はこんなルールに従いたくないと主張していたのでは皆と一緒に遊べません。子どもたちは、そのルールに縛られて自由がないのではなく、遊ぶためにはルールがある方が面白いということが分かり、自分から進んでそのルールに従っているのだと思うのです。

 「友だちと一緒に遊ぶ」という当たり前のように思っていることの中には、いつも個人と共同性の葛藤があり、誰かに言われたからするというのではなく、自分の自由な意志でルールに従うということを可能にしてくれるものが含まれているのですね。子どもにとって、「共にあそぶ」ということの大切な役割をあらためて認識しました。

 子どもたちには、社会の決まりや規範も学んで欲しいと思っています。それらは社会で生きていくうえで必要なものです。これらを子どもたちに押し付けるのではなく、子どもたちが責任を負える範囲で、成長と共に少しずつ自由の枠を広げてあげることが大切なのではないかと思います。その場合、枠を広げる時期を間違わないようにすることが重要です。今、あまりにも早くから子どもを自立させようとしたり、いつまでも親の保護の中で押しとどめようとすることによる問題がたくさん出てきているからです。
 また,子どもたちの周りに道徳的な大人がいることもとても大切です。これは大人の責任が重いです。思春期の反抗の多くは、大人の不道徳な姿を目の当たりにしたものですから。成人したときにはすべての枠を取り払い、自分の意志で決めることができるようになることが理想の姿なのでしょう。

 個と類、これは大人になってもずっと続く課題です。タインさんはどちらか極端になってしまうことは健康的ではないといわれます。自分の好きなような生き方をしたいといって無政府主義になってしまったり、人の言いなりになって自分が無くなってしまうことも不健康な生き方だといいます。私たちは、いつも個と類の間にいて極端に偏ってしまわないようにバランスを保つことが大切なのだと。

 自由の哲学の講義を通して、「思考する」ということの大切さを学びました。また、私たちが自由に生きるためには、「自分の行為を愛すること。」という言葉もとても印象に残りました。シュタイナー教育の目的は、自分が何をしたいのかを見つけ出すことができる子どもを育てるのだということを聞いたことがあります。それが自由への教育といわれるところなのでしょう。

 最後にタインさんは、「この講義は私の解釈です。この講義を聴き、皆さん自身の解釈を考えてください。それは個々人で違っていてもいいのです。」といわれました。私は、いまだに自由の哲学の本は読みこなせていないし、タインさんの講義の内容も十分伝えられていません。ひょっとしたら間違ったことを伝えているのではという思いもあります。その点はどうかお許しください。

 「自由に生きる」ことは本当に難しいことです。誰かが指し示してくれた道を歩む方が楽です。自分で決めた道だと責任が伴います。うまくいかなくなっても誰かに責任をなすり付けるわけにはいきません。自分はいったい何がしたいのかを見つけることも容易ではありません。しかし、タインさんは、私たち一人ひとりは、自分のすべてを決断して生きていくことができます。自分の運命を作り出し生きていくことが出来るのです。このことは大きな仕事だけれど、すばらしい仕事でもあるのですと述べておられました。

     「人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。」



 「自由の哲学」の講義を終え、ギャザリングで発表した劇のシナリオです。
私が創作したものです。

                  人間には自由があるのか?
 
若者:
 私は自由を求めているのに、いつまで経っても自由だと思えません。お腹がすけば何か   を食べたければなりません。また、幼いときから父や母に「このように生きるのだ」と言われ大きくなり、その教えにいつまでも縛られています。私は自由を手に入れることが出来ないのでしょうか?

神 :お前はまだ眠っているのです。完全に目覚めていないから、自由になれないのですよ。

若者:え、それは一体どういうことですか?

神 :
 何かをするとき、どうして私はこれをするのだろう。どうして私はこれをしたいのだろう。と考えるのです。そうすれば目覚めることが出来るのです。

若者:まだよく分かりません。

神 :
 目覚めるというのは考えるということです。考えることによって、自分と世界を理解することが出来るのです。そのことによって自由が見えてくるのですよ。

若者:
 自分と世界のことを考える。そうしたら自分のこともわかって、世界のこともわかるのだろう。それがどうして自由につながるのだろう。

悪魔:若者、お前はいったい何を考えているんだ。

若者:
 私は、自由な人間になりたいのです。どうすれば自由を手にすることができるか考えているのです。

悪魔:はははっは…人間に自由などあるわけがないわ。

若者:神様は自由があるとおっしゃいました。

悪魔:それでは、お前は何も食べずに生きていけるのか?

若者:生きていけません。

悪魔:
 おまえは自由ではない。お前は朝7時に起きて、働きに出かけなければならない。お前は自由ではない。お前は隣のおじさんが嫌いだ。道であっても挨拶するのがいやなのに無理に挨拶しなければならない。お前は自由ではない。

若者:でも神様がよく考えたら、自由になれるといいました。

悪魔:生意気なやつ。神のところへ行って人間には自由などないことを知らしめてやろう。


悪魔:
 神よ。お前は人間に自由があるなどといったそうだな。ではすべての者が、好き勝手なことをしだしたら、世の中は犯罪者ばかりになるのではないか?

神 :
 人間は本当の自由を手に入れたなら、よい行いをすることが出来るようになるのですよ。誰からもどんなものにも束縛されない本当の自由は、その人のもの。その人自身が行うことはその人がとても好きなこと。その人自身が愛に満たされるのです。だから良い行いができるようになるのです。

悪魔:
 では、すべての者が「自分が、自分が」と自分のことばかり主張したら、世の中にはけんかがあふれ一緒に生活することなど出来なくなるではないか。

神 :
 一人ひとりの人間が、他の人に関心を持ち、他の人を知ることが出来たときにのみ、自分自身の個性も尊重されるのです。人間の本能や見せ掛けの義務感に従うような人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない人を排除するのです。自由な人は人に同意を求めたりしませ。行為への愛において生きること。他人の意志を理解しつつ生かすこと。これが自由な人間の理念なのです。

悪魔:
 お前の言うことは幻想に過ぎない。そんなものはどこにもない。人間は道徳的な役割を義務として受け取り、自分の意志や感情に逆らってでも社会のおきてに従うときにのみ道徳的でありるのだ。

神 :
 いいえ、自由な精神を持った人は、外から強制されたりしません。習慣やおきて、タブーなどの中にいつまでもとどまっていません。自由な人間である限りにおいてのみ、真の人間なのです。

悪魔:そんなことは理想に過ぎない。

神 :
 むろんそうかもしれません。でもこの理想は人間の中に必ずあるのです。今、外に現れてこようとしているのです。

悪魔:
 そんなにお前が偉そうにいうのなら、あの若者を自由な人間に導いてみろ。そうすればお前の言うことを信じてやろう。

神 :若者よ、本当にお前は自由な人間になりたいのですね。

若者:はい、神様。どうすればなれるでしょうか。考えるということはどういうことですか。

神 :
 かつて人間は、世界と一つでした。でも、人間の進化と共に世界から切り離されてしまったのです。私と切り離され、私にとって自然も他の人も「ただの物」になってしまいました。自然も人も物として利用した人間は、環境を破壊し、争いを起こし、利己的な人間になってしまったのです。「ただの物」になってしまった自然や隣人を再び私につなげていく作業をしなければなりません。それが考えるということです。考えるためには、そのものに関心を持ちしっかり観察しなければなりません。そのことを通してのみ、本当の姿が分かってきます。本当の姿が分かってくると私にとっては、それはもう「ただの物」ではなくなるのですよ。

若者:私にそんなことが出来るでしょうか。

神 :
 お前は、善になる可能性と共に悪の力も宿っていることを知らなければなりません。自由とは、人間の尊厳を表すもっとも普遍的な言葉です。しかし、どれほどの自由を求めようとも、そこにいたることは、悪との対決なくしては可能ではありません。お前の本能と戦うのです。お前の考えたことによって得られる知性がそれを助けてくれるでしょう。

全員で:
     行為の動機を意識せよ。
     私が行為するのは私がそれを愛しているからである。
     私を直接導いているのは、習慣や規範などではなく行為に対する私の愛である。
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by higuchi1108 | 2007-03-03 12:51 | 自由の哲学