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(4) 理解の遅れの本質・最後に

理解のおくれの本質はいったいどこにあるのでしょう。
 村瀬氏は、心の現象の総体は、変容するとともに発達する構造としてあると述べておられます。
そして、おくれるとはどういう事態を指すのかというと
A 規定の融化
B 規定の確定
の2重構造を持っているというのです。

発達とは、
 規定の確定の構造だといいます。
一旦規定化されたものは、それを土台にして次々にその規定を伸ばし広がっていきます。

変容性とは
 規定化された心の現象は、いつかその張り詰めた状態を緩めます。眠りとは、規定の融化です。逆に覚醒は規定のすべてです。規定が融化するところに変容性が現れるのです。
 
 いつも覚醒している心の現象は考えられません。私たちはまったく眠らないで目覚め続けることは出来ないからです。
 私たちは、ある状態を規定づけます。そして緊張を解き、弛緩し息抜きをします。

 村瀬氏は、理解の遅れる本質は、この融化したり確定したりを行き来する転化の構造に、何らかの転化不全があるからですと言われます。想定しうる転化不全は、硬化と放化の事態だといいます。心的な硬化とは、心的な転化の過程が規定するときに固着してしまって、一旦停止してしまう現象をさします。心的な放化とは、心的な転化の過程において、規定化そのものを放棄してしまう現象をいいます。このようなことが起こるとき転化はスムーズに達成されなくなり、転化不全が出てくると述べておられます。

規定の融化(放化)、融化心性
 いつも眠っている心の現象とは、いくつになっても首がすわらない、寝たきりの重度の心身障害児の心性をいいます。
 眠りは誰にとっても等しく現れる心の現象です。それが眠りから覚醒への転化の構造が著しく放化され、きちんと目覚めないままに、いつも心的な融化の状態にい続けることをいいます。
このような心の状態の中にいると意志の発現は当然のことながら十分に形成されません。そのため、首のすわり、寝返り、お座り、はいはい、歩行といった姿勢へと転換させてゆく行動がなかなか成立しません。融化心性の中にいる子どもの多くは意志の発現が十分ではありません。

 融化する心性というものをどう評価するかという問題があります。
発達論の立場にたてば、この子らをもっと発達させるという問題意識に尽きてしまいます。そういう立場に立てば融化している状態は、直ちに否定され、克服されなければならない状態としてしか見えてきません。
村瀬氏は、融化する心性をそれ自体においてもっと受け止め直して見なければならないといいます。自分たち自身が融化の心性をどう評価するのかという自らの問いにもつながります。と述べておられます。

規定の確定する場合、転化の過程で硬化してしまう場合
 村瀬氏は 親和心性と 遊離心の二つがあると述べておられます。

親和心性とは(ダウン症などの存在のあり方)
 規定化するのはするが、その確定の仕方が移ろいやすく曖昧で、融化しやすい場合。構成化がなかなか飲み込めない場合です。
根源的に他者に対して親和的、つまり人なつっこく、愛想がよく、世話好きです。自分から懸命に周囲のものに関わろうとする傾向を本質的に持っています。

 これは、しばしば社会性と間違えられます。決して社会性が高いのではありません。社会性のたつ基盤は共同性であり共同規範の意識です。
この親和性は、類的なものの中に自己を没頭させる率が高いので、自己決定よりか他の人の決定に自分の決定を預けてしまう率が高くなります。いわゆる人の言いなりになりやすいのです。自己決定がきちんとされないものは、空覚えであったり、丸覚えであったりして、理解のおくれになっています。確実な決定をする力が弱いということは、その分だけ自己を意識することが弱いことです。

 このような心的現象にある子どもの判断の特徴は、物事の差異に目をつけるよりか類似していることのほうに判断する力が優位です。物事の同一性を確定していくという課題に関して大変な困難を示します。コップ5杯のジュースと5個のおはぎを同じ数であるということがなかなかつかめません。両者はまったく似ていないからです。

遊離心性とは(自閉症となずけられてきた子ども)
 規定化するのですが、その規定の仕方が杓子定規な固定として出てきて融化しにくい場合です。親和性とは対照的に、人に対する親和性が著しく希薄な心性を見せます。

 物事のやわらかい構造を幾何的に割りきって規定する、区画的な心の構造があります。そうした企画的な心のありようには、あまり自己決定の要素がいりません。カレンダーや電話帳を覚えるとか機械の配線を覚えるなどの能力が見られます。一方、画一的な自己決定しか持つことが出来ないので、決定の切り替えがうまくいきません。どうしても持ち前のパターンに固執しようという事態が出てきます。状況の変化への抵抗、新規なものへの恐れが出てきます。

心的現象としての「てんかん」という現象は、
 村瀬氏は、心的な硬化と放化が同時に出現する状態だといいます。「てんかん」というのは、心的な転化構造がある時点において一気に硬化し、同時に放化するという矛盾した心的な転化が現れるのです。その心的硬化がひきつけであり、心的放化が脱力です。このひきつけと脱力が同時に出現することによって、いわゆる手足をこわばらせ倒れるという姿に見られる、発作の典型が現れるのですと述べておられます。

 村瀬氏は、ダウン症などに見られる親和心性の子どもと、自閉症などの子どもに見られる遊離心性の子どもの違いは、発達の違いとしてとらえるのではなく、一方への寄りかかりの現象として両者の違いを受け止めるべきだと言われます。

 現実はこのままの形を生きている子どもはいません。どちらかに偏りがあっても、もう一方の特性も持ち合わせています。だから現実の二つのタイプがあると決め付け、その子がわかったようになるのは大変間違っています。現実に生きている子どもたちは日々変化しています。そうした流動的なかたちのなかで彼らの見せる心的な偏りがどこから来るのかの想定を立てなければなりませんと述べておられます。

 こうした理解を踏まえつつ、その対象となる子を、常に心的な発達過程の中において見つめる目を私たちはもってなければなりません。
 心の発達の筋道は、どの子も皆同じです。変容の中の発達、発達の中の変容という視点で把握されなければなりません。と

最後に

 村瀬氏のこの理解の遅れの本質を読んで、こういう理解の仕方もあるのだということを感じました。それと同時にとても納得したのです。身体的には(脳にも)何の異常もないのに、通常の子どもより発達が遅れていくのは何故かという問に答えが得られたように思います。

 ダウン症の子どもたちは、染色体に異常があること、自閉症といわれる子には、最近では脳に障害があるという事も言われています。異常があるから様々な特徴的な状態が出てきているので仕方がないではなく、心的な現象としてとらえると手助けの可能性が見えてくるように思います。どちらかに偏りを見せている心の現象を、少しずつもう一方の方に引き寄せバランスを取ること、このことが心の癒しにつながっていくように思います。これはすべての子どもたちにも、私たち大人にもいえることです。

 ハンディキャップがあるないに関わらず、すべての子どもたちが融化したり確定したりを行ったり来たりして成長していくことを思えば、目先の出来る、出来ないに目くじらを立てる私たちのあり方も反省が必要です。特に融化心性のときに変容が見られることに注目したいと思います。

 治癒教育家養成講座のレジュメの中に、バーバラ氏が次のように述べておられます。
「子どもたちが今生きている世界は、大急ぎで、野心的で、恐れに満ちています。子どもたちが問題を抱えているというけれど、変わるべきは大人の側です。私たちは、感情生活と意志の生活を無視しています。思考ばかりに走って、もっと覚えなさい、もっと勉強しなさいといい続けています。こういう状態を改めない限り、子どもたちが抱えている問題は解決されません。」と。

 狼に育てられた子どもは、発見されてから人間の中でどんなに育てても、2本足で歩くことも言葉も話せなかったと聞きます。4つ足で歩き、狼のような鳴き声を発していました。逆に狼は、人間に育てられても決して人間にはなれないのです。人間のもつこの能力には驚かされます。そして、乳幼児期というのは類になろうとする力がとてつもなく強いことを感じます。

 シュタイナー幼稚園で、保育環境をとても重要視しているのはこのことなのですね。周りの環境、その中には私たち大人も入りますが、良いものも悪いものもすべて受け入れて吸収しようとするのがこの時期の子どもたちであることを忘れないで、育てていくことができればと思います。

 子どもは、人に育てられることによって、対象者を発見し、他者を発見し、自己を発見し、そして共同規範を発見していくことを知りました。その過程がすべてに意志の力が働いていることがわかりました。また、自分の身体を自分のものとして自由に扱えるようになる過程も、すべて意志の働きによるものだということもわかりました。シュタイナーが0歳から7歳までは、「意志の時代だ」と言っている意味はまさにこのことなのですね。

 この時期に意志を育てることの大切さを思います。意志を育てるためには、自由にあそぶ環境と時間が欠かせません。自由に遊ぶときには必ず意志の力が働いているからです。自由遊び(ごっこあそび)の意義や方法、おもちゃなどにも目を向け、目先の出来る、できないに気をとられることなく、子どもたちの意志を育てていく育児・保育のあり方を模索していきたいと思います。

 村瀬氏は「初期とは何か?」ということについて、発達の初期ではないと述べておられます。新規一転、出直しと言われてきたもので、そこから活力を得、再生の力を得られるものとして問いたいと述べておられます。

 村瀬氏は、幼児の特徴は様々な心的現象が等価として現れる時期だと言います。類的なものと主観的なものが、眠りと目覚めが、現実と想像が、考えることと存在することが、幼児の次元では等価となりますと言われます。
泥まんじゅうをプリンのように扱うのは、同一視しているのではなく等価とみなしているのです。これは、また、聖人の心性でもあるのですと。

 私たちの価値観は、幼児の時と比べてなんとゆがんだものになってきているのでしょう。人の評価や見た目に左右され、良し悪しを評価してしまいます。

 また、世界のあらゆるものに心があると感じる幼児の心があれば、自然をここまで破壊することもしなかったのではと思います。

 幼児の心性から学び、かって私たちも有していた心性を思い出し、新規一転、出直し、再生の力を得たいと思います。
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by higuchi1108 | 2006-09-25 19:44 | 子どもの心の成長