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芸術教育・自由への教育

                    シュタイナー教育って何?
 ミカエル・カレッジでの2年間の教員養成プログラムは終了しました。教わったことの半分も皆さんにお伝えできていないのが現状です。今の私には理解できないところも多く、なんとなく分るけれどどのように伝えていいのかわからないというところもたくさんありました。シュタイナーの思想を学ぶには2年間ではとても無理です。一生涯学び続けるというぐらいの覚悟がいります。けれどもシュタイナー教育って、いったいどういうものなのと問われたときに私なりに説明できるものをお伝えできればと思います。

 シュタイナー教育というと
・芸術教育
・自由への教育
などと呼ばれています。

何故、芸術教育なのか?
 14歳からのシュタイナー教育という本の中にも、体育、音楽、絵画制作、オイリュトミーなどの教科をおろそかにしてはなりません。という文章が常に繰り返し出てきていました。小学校のメインレッスンにも、算数や地理や歴史といった授業でも歌をうたい、詩を朗読し、お話を聴き、絵を描きという授業がなされています。

 先日、仲正雄氏(ドイツで治癒教育家として活躍されている)の講演を聞く機会がありました。氏はその中で
 宗教(善)    芸術(美)    学問(真)
この3つについて話しをしておられました。
昔は宗教が権威を持っていました。ガリレオは地動説を訴えたので宗教裁判にかけられました。今の時代は学問が権威を持っているといわれます。
学問的に証明されないかぎりそれは正しくないとみなされます。学問的に証明されていないものは学校で教えることはできません。でもこの世の中わからないものだらけです。特に人間の心なんて何も科学では証明できません。

 仲氏は、芸術が権威になることはないといわれます。
社会が貧しくなると芸術が真っ先に切られます。また、機能が優先されている社会でも芸術が削られます。今の高校は音楽や美術は選択になっています。

 また,仲氏は人間の中に宗教心があれば周りのものと一つになろうとし、学問は周りのものと距離を置こうとするといわれます。今の時代は宗教が消えて学問が中心なので人と人との間に距離が出来ているのですと。
一つになってしまって個がなくなってしまうことも危険です。かといって人との距離がありすぎると孤立してしまいます。
芸術は宗教と学問の間にあって、その中でどちらにも影響しあいバランスを取っているのだというのです。

 意志  感情  思考

という心のとらえ方ではこの3つをバランスよく育てることが大切だといわれています。現代人は思考に偏りすぎています。バランスをとるため、その真ん中にある感情を育てることが重要になってきます。感情を育てるためには芸術が欠かせません。

 世の中のものはすべて対極があります。小林直生氏(キリスト者共同体の祭司)の講演録に対極するもののどちらかに偏ると否定的な面が現れると書いていました。
たとえば

 けち       浪費
劣等感      思い上がり
杓子定規     無鉄砲
冷酷        感情過多
現在執着     現実逃避

 私たちの健康を考えたときも、神経感覚系や四肢代謝系に偏ってしまうと病気になります。芸術は両極のどちらにも働きかけてバランスを取ってくれるものなのですね。

 では、自由への教育とは何か?
 シュタイナーのいう自由とは、自分の思い通りに何でもできるというものではありません。「自由の哲学」の本から学んだことは、権威からの解放と倫理的な態度です。

 「自分が自分の行為の動機・理由付けを自分の外に置いた瞬間にそれは非倫理的な行為になる。自分がその行為に対して愛情を持つことができるならば、それは倫理的・道徳的な行為になる。」

 というものでした。権威のある人や社会的に偉い人が言ったからするとか、社会が求めているからするとか、誰々のためにとかではなく、自分が好きでたまらないからするのです。それが倫理的・道徳的な行為になるというのです。いくら立派な行為をしたからといって、その行為が好きでやっているのでなければそれは偽善になってしまいます。自分が愛した行為をするときは、誰にも文句は言わないし責任も取れます。自分の考えを他人に押し付けたりしません。他人の意見も受け入れられます。何より、その人は幸せな人生を送れます。そのことの結果として人々の役に立つような行為が出来ているのだと思います。

 シュタイナーはこのような、「自分の好きなことは何か?」を見つけることができ、それを行うことが出来る子どもに育てること。そのことを教育を通して育てようとしたのではないかと思います。ここが、シュタイナー教育が自由への教育といわれるところなのだと思います。そして、自分の好きなことを見つけそれを行うことができるためには、意志、感情、思考のバランスが必要なのですね。

 次に、教育を行う側の大人はどうあるべきなのでしょう。
シュタイナー教育の方法論を学び実践できる能力を身につけることも大切なこととしてありますが、その根底に流れているシュタイナーの思想を抜いてはうわべだけのものになってしまいます。シュタイナーは教育を行う根底には次の2つのことが大切だと述べています。

・一人ひとりの子どもは、かけがえのない大切な存在だということを認識する。
・自分自身の精神の成長を目指す。

 これは当たり前のことといえば当たり前のことなのですが、ただ口先だけで言うのではないのです。シュタイナーの深い思想がこの中に含まれています。

シュタイナーの人間観を学びました。
 人間はとてつもない長いときを経て、肉体、魂(心)、霊(精神)の3つからなる存在になったというのです。3つのうちの霊(精神)は、他の誰でもないその人だけの核となるものです。その霊(精神)は死んでも無くなるのではなく、幾度も生まれかわり、その人の核である精神の成長を促すのだといいます。死後、肉体のなくなった魂と霊は精神界にいき生前の行いを悔い改めるのだそうです。そして、その人の霊は次の生で前世の償いをしようという使命を持ってまた地上に生まれてくるのだというのです。

 このようなことは証明できるものでもなく、学問が中心になっている現在においては受け入れられないこととしてあります。

 ワルタービューラーという人が書いた「人智学の死生観」という本を読みました。
「私は何のためにこの世に生まれたのだろう。」
「私は生きていることに意味があるのだろうか。」
彼はこの問いに答えが見いだせないで苦しんでいる人々が増えているといいます。

 脳に障害を持ったり、知的障害児として生まれてきた子どもたち、あるいは精神障害のあるものとして生涯を養護施設で過ごさなければならない人は、その目標を設定したり、それを自分のものにする能力を全く欠いているのでしょうか。その人たちに人生の意味があるのでしょうか。治癒の見込みのない生命は生きている意味がないのでしょうか。健康で生まれる人がいるのに、生まれつき虚弱な人がいるのは何故なのでしょうか。この世には不公平が支配しているのは何故なのでしょうか。

 この本の著者は、これらのことが神の不在、無宗教を助長し、心が満たされない不安な状況を強めているといいます。そして、人間の核となる精神の再生を可能なものとみなさない限り、人生に意味と運命の謎を徹底して考えたことにならないと述べ、人生の再生は無数の謎を解くことができ、心を鎮め充実させる感情を引き起こしてくれるのだといわれます。

 この繰り返される地上での生の本当の意味は人格を持った一人ひとりの人間がさらに発展し高められていくことであり、来るべき地上での生を眺めることは、この世での様々な辛苦に意味を与え身に受けた不公平をも希望によって乗り越えさせてくれるのですと。

 ビューラー氏は、この世で障害をもって生まれた人々は来世では健康な体を持ったものとして生まれ、その人に対して行ってきた様々な援助や介護は、返礼をするという強い意欲をその人の中に呼び起こします。この障害は、厳しい試練に耐えて生きぬかれた人生の体験となると共に、新しい能力とさらに高められた自己の発見のための原点を形作るのですと述べています。

 また彼は、色々な人種やいろいろな国に生まれ変わるという再生の思想は、国家主義、民族主義を乗り越えます。個々の人間の持つ遺伝、血統、そして過去のしがらみをはるかに越えて、人間存在における霊的な中核に私たちの注意を向けさせます。再生の思想は、人類を一体ととらえる考え方を可能にしますといわれます。

 また、地球は決して「後は野となれ山となれ」と考えて好き勝手に出入りできる宇宙船ではありません。それは数十億年をへて完成し、自然界の完璧な生態的均等の元で計画され、さらに心をこめて整えられた愛の力に呼び招かれた「私」としての実在する人間の発展の場なのだ。という地球に対する責任感を生み出します。

 さらに著者は、中世から近世への目覚しい変転をコペルニクス的転回と呼ぶのだそうですが、再生とカルマの認知は、人類と地球との救済に向けた霊的な意味での同等な転回をもたらすでしょうと述べています。

 輪廻転生という思想は、私たち一人ひとりの人生に意味を与えてくれるばかりか、今、地球上で起こっている様々な問題に答えを見出すことができ、私たちがどのように行動するのかを明確に指し示してくれるものだと思います。

 障害者を「価値ない生命」とみなし、ガス室へ送ったナチ政権のことは有名ですが、現在でも治癒の見込みのない病気を持った人に対する安楽死の問題や生まれる前に障害があることが分かると堕胎することが認められる法律があること。また、重い障害がある子どもを親が殺してしまうこともあります。
その人たちが生まれ変わったときには、今度は重い障害を持った人々に対して献身的に尽くす愛にあふれた人になるのだという認識があれば、価値なき生命として抹殺することなど許せるはずがありません。

 また今でも、民族の違いや宗教が違うということからくる争いに終止符を打つことが出来ない状況があります。自分自身が今度生まれるときには必ず違う人種、国に生まれるのだとすると、民族間で争うことなどおろかなことです。

 また現在、環境問題は深刻さを増しています。次に生まれる子のために地球をきれいにしておかなければと唱えても、自分のことではないと思うと所詮人事で今の便利な生活の方を優先してしまいます。しかし、死んだら終わりではなく、又、再びこの地上に生まれてくのだとすれば、地球を大切にしないではおれなくなります。

 私たち生きているものにとって、「死」は避けては通れないものです。誰でも必ず「死」はやってきます。死んだらどうなるのか、死んだらすべて終わりなのか、分からないことには不安や恐怖がついてきます。元いたところに帰るのだという思いがあれば不安や恐怖もなく安らかに最後を迎えられえるのではないでしょうか。また、家族や友人たちの悲しみも和らぐのではないでしょうか。

 この本の著者が言うように再生の思想は、現在の世の中にコペルニクス的転回に匹敵する転換をもたらしてくれると思いました。
しかし私も含めて、今日の自然科学に規定された考え方に立つ現在人には、再生の思想を受け入れることはなかなか難しいと思います。

 このような人間観を私自身どのように受け入れたらいいのかずっと悩んできました。本当のことと思いたいという気持ちはありましたが確信を持つことができずにいました。
 ところが突然昨年の12月に夫の死と遭遇することになってしまいました。死んだらもう終わりなのでしょうか。全部なくなってしまうのでしょうか。感じたり、考えたりするための肉体がないのですから精神も魂も存在しなくなるのでしょうか。まだこの世でやらなければならないことが残されていたらそれはどう精算されるのでしょうか。
このように考えるのはとてもつらく、肉体はなくなっても、目には見えなくてもどこかで存在して私を見守っていて欲しいと思うのです。

 そんな時、6歳になる孫の乃海が「じいちゃん、お月様にいてるねんで。ノアちゃん見た。」というのです。この言葉で私は確信を持つことが出来ました。小さな子どもの言うことなんてと思われるかもしれませんが、小さな子どもの言うことだからこそ信じられるのです。まだ精神界に近い存在である小さな子には実際に見えるのだと思います。
シュタイナーの思想は、親しい人との死別を体験した私の心を本当に慰めてくれるものになりました。

「教育の基礎としての一般人間学」の本の第1講のシュタイナーの言葉です。

 私たちの課題は、知的情緒的なものではなくこの上なく道徳的精神的なものです。あらゆる領域で人間の利己主義が支配しているこの世相で、私たちは戦いを挑まなければなりません。それには、誕生について、死後の進化について理解を深めること。意識的になることが求められます。生まれる以前に高次の存在たちによって配慮されてきた事柄を、今、教育によって継続されなければならないということを私たちは意識したいと思います。
                                            R シュタイナー

 子どもたちが好きなことを見つけるということは、その子のこの世での使命を見つけるということです。教育によって一人ひとりの子どもの使命を見つける手助けをするのだということなのですね。

 私自身も使命をもって生まれてきたのだということを改めて自覚したいと思います。あと何年生きるか分かりませんが、そのことを意識しつつ自分自身の精神の成長を目指すことができればと思っています。

 私はこれから大阪の地でシュタイナー教育に基づく乳幼児の保育の場を作ることを目指したいと思っています。様々な困難が待ち受けていると思うのですが、シュタイナーが学校を設立するに当たって教師たちに向かって言われた言葉、

 「その行為は日常的な行為なのではなく、宇宙秩序のための一つの祝祭行為なのだ。」
という言葉をかみ締めて歩んでいきたいと思います。

 皆さん、小さな力しかない私ですがどうか応援してくださいね。これからも、保育の場作りのこと、勉強したこと、感じたことなどブログに記載していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
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by higuchi1108 | 2008-04-26 10:21 | シュタイナー教育って何?

シュタイナー小学校の算数

                       算数―数の不思議

 ベンさんの算数の授業がありました。私は算数が苦手でした。小学校での算数というとひたすらドリルの計算をさせられていたように思います。それ以外のことは何も覚えていないのです。こんなつまらないことをして何の役に立つのだろうと思っていました。ところがベンさんの授業ではいやな計算も知らず知らずに一生懸命している自分がありました。「数」って本当に不思議と思わせる授業でした。知りたい、分かりたいと思わせる授業が子どもの勉強への意欲をもたらすことを実感しました。私も小学校でベンさんの授業を受けていたら算数が好きになっていたかもしれません。そんなベンさんの授業をお知らせしたいと思います。

 数字というのは普遍的な言葉です。数字のシンボルは世界で共通です。音楽も全世界共通ですが文化的なものが含まれています。けれども数学は国が色々ちがっても数学を理解するのは同じです。ベンさんは、数学は言葉や文化にこだわりなくそこには意識が関わっているだけだといいます。そういう意味において算数は特別な教科ですと述べておられました。

 まず始めに数学とは何か?という問いがありました。人間が作ったものなのか、あるいは宇宙から与えられたものなのかという問いです。皆さんはどう思われますか。

 1、2、3…という文字は人間が作ったものです。10進法を使うのも人間が作ったものです。10進法というのは、指が10本あることから考えだされたものです。ですから1年生の算数では数を数えるとき指を使うことがとても大切です。でも、数字が10まででなくても、5まででも、7まででも、13まででもいいはずです。コンピューターは0と1しかありません。

 「12」という数字は、とても不思議な数字です。一度も国と国とが接触していないのに世界のあらゆるところで宇宙を「12」という数字で認識していました。「12」は時計にも使われています。月も12ヶ月です。10の方が数えやすいのにも関わらずです。そもそも10進法というのはとても新しく、せいぜい100年ほど前から使われているものなのだそうです。
それまでは世界のあらゆるところで10進法ではなく、様々な計る方法がありました。何故、昔の人たちはこのような計り方をしていたのでしょう。その時代の人たちの意識は今と違っていたのでしょうか。現在の算数は、現在の意識と結びついているのでしょうか。
 
 一般的な学校では何が出来て、何ができていないかしか考えようとしていないように思います。この子は割り算が出来ない、掛け算が出来るようになったなどです。べンさんは、算数というのは一方でとても現実的なものであり人間が作り出したものですが、同時にもう一方で精神的なものです。算数を教えることを通して世界を認識していくのだという視点を持つことが大切ですといわれます。

 算数を教えるときに大切なこととして3つのやり方があります。

第1は実際的なものを使って算数をすること
 たとえば、お店に何かを買いに行くなど、実際の生活に結びついていることでアプローチすることです。

第2はリズムを通して働きかけます。
 ベンさんはすべての数字は様々なパターンが織り成しあっているといいます。たとえば、
 2、 4、 6、 8、 10、 12  14、  16  18
   3   6    9    12     15    18

 3の段の数字は一つ置きの数字が2の段と重なりあっています。
体を使ってそのリズムを体験するのです。

第3は純粋な数学といわれるものです。
 数字そのものがもっている不思議にひきつけられるようなアプローチです。
病院の待合室で、9歳ごろの子どもが、「“5”て何?」とお母さんに質問していたそうです。「5冊の本、5枚のコイン」とお母さんはこたえていました。けれども「ちがう、“5”て何?」と子どもが何度も聞きます。この質問には大学生でも答えられません。この子は精神的な問いをしているのですから。ベンさんは純粋な「5」は地上的なものではないといいます。

 教育をするとき、子どもの意志、感情、思考のすべてに働きかけることが大切です。ベンさんは数学は美しくなければならないといいます。そこには様々なリズムがあります。それは感情に働きかけます。
 数学の問題が解けたときには大きな満足が得られます。驚きと真実を求めようとするとき思考が働きます。「私はわかった。理解した。」という満足が得られるものでなければなりません。
また、子どもは数学は善なるものだということを理解します。そして、算数は意志のための栄養になるのです。

・体が覚えるということ
 数学を教える大きな原則はまず体に教えるということです。頭がそれを理解するのは後のことです。意識的に学ぶのではなくまず意志と感情に働きかけます。

 輪になってお手玉を投げ合います。向かい側の人に投げるときは距離が長いです。隣の人に投げるときは距離が短くなります。長いー短い。長いー短い。長―短 長―短のリズムは2の段のリズムです。

 これは足でも体験できます。左足は音を立てずに歩きます。右足は音をたてて歩きます。2の段です。左、右と音をたてずに歩き、左で音をたてて歩くと3の段になります。これは音楽の2拍子や3拍子ともつながっています。繰り返し、繰り返しするうちに体が覚え、ようやく頭で理解することが出来ます。

・最初は全体から始めるということ
  7+4=□、12-9=□、3×8=□、27÷3=□
 これらの計算の正しい答えは一つしかありません。答えは正しいのか間違っているのかの2つです。小さい頃からこのような質問を繰り返していると、ある人生の中で出す答えは一つだということを学び取ってしまいます。自分の考えた答えが正しいとすると他の人の答えは間違っていることになってしまいます。

 17=12+5
   =10+7
   =1+1+15
        …
 このように全体からはじめると、あらゆる子どもが答えを出してきます。全部正しい答えです。人生において、この人の考えもこの人の考えも正しいということを学びます。そのことを心に働きかけます。ベンさんは、算数は倫理的であり社会的なのですといわれます。

(1年生の算数)
 1年生で足し算、引き算、割り算、掛け算の4つの計算を習います。1年生で全部の計算をするのはちょっと驚きでした。ベンさんは、違った性質を子どもたちに体験させるためだといいます。

 これらを教えるときには簡単なストーリーを用います。
たとえば
 ちいさなアニーが町に行ってナッツを15個買いました。帰ってきたら9個しかありません。
手元に9つしかないのが問題の始まりです。最初はいくつあったのかな。いくつなくなったのかな。と考えます。

一般的によく出る問題は、
 ちいさなアニーちゃんは15個りんごを買って5つ失くしました。いったいいくつ残っているでしょう。
 この物語は現実的ではありません。実際は途中でいくつなくなったのかわからないからです。問題の中に、途中で友だちのメリーちゃんに2つあげてジャックに3つあげました。いくつ残っているでしょう。という問題なら現実にかなったものです。
 また、この人は42歳でした。もう一人は72歳でした。この2人の年齢を合わせるといくつになるでしょう。これは意味のない物語です。

 問題を出す場合には現実の生活にあったものであることが必要です。

私がとても感心させられた問題があります。それは次のような問題です。
 ジャックは今7歳です。 妹のアニーは1歳です。
 ジャックが8歳になると 妹のアニーは2歳です。
 ジャックが9歳になると 妹のアニーは3歳です。
 ジャックが10歳になると妹のアニーは4歳です。
 ジャックが11歳になると妹のアニーは 5歳です。
                   …
 ジャックはアニーよりも何歳年上ですか?これは足し算でも引き算でも答えを見出せます。
7-1=6、1=7-6、6=7-1、7=1+6、1+6=7
これらすべての計算をこの問題は表現しています。次の年にジャックが9歳、10歳になっても答えは同じです。
けれども、掛け算になると状況は変わってきます。
最初のときは、ジャックはアニーよりも7倍の年でした。 
              7=7×1  7倍
次の年は        8=4×2  4倍
その次の年は     9=3×3  3倍
  ・
  ・
ジャックが12歳のときは 12=2×6 2倍です。

 アニーはジャックに追いつこうとしているのでしょうか。いつか1倍になるときがくるのでしょうか。ジャックが24歳になったらアニーは18歳です。1年生の子どもには難しいですが数字が近づいていっていることがわかります。
「皆の年は7歳だよね。1歳のときとは本当に違うよね。12歳のときと6歳でも違うよね。みんなは48歳の人を知っているかい。そのときアニーは42歳だね。48歳と42歳の人の違いを言えますか。」
このように子どもたちに問いかけます。
現実の世界は掛け算と同じ事を実証してくれます。

数字の性質を知る
 たとえば4という数字だと、動物の足は4本、車のタイヤも4個です。5だと足や手の指の数、7だと一週間や虹の7色…このような話をして数字の性質を知っていきます。私が感心したのは3という数字の性質を学ぶために綱引きをさせるという話です。一本の綱をそれぞれ3人ずつ持って引っ張ります。この方法だと必ずどちらかが勝ちます。次に綱の真ん中にもう1本綱を結び3方向から引っ張ります。するとどのチームも勝たないことになります。どちらかが勝とうとすると2つのほうが負けまいとするからです。3というのは調和を表す数字なのです。
物事にはすべて両極があります。どちらかに偏ってしまうと否定的な面が出てきます。
 過保護―放任、けちー浪費、無鉄砲―臆病などすべてにおいて調和が求められます。

(2年生の算数)
 2年生になると大きな数字を習います。
   12、345、679

この数字の1はただの1ではなく10、000,000
       2は            2、000、000
       3は              300、000
       4は              400、000
       5は                5、000
       6は                  600
       7は                   70
       9は                    9です

次に面白い問題が出ます。
      12345679
            ×9
      111111111
 子どもたちに計算をさせます。答えは1が並びます。
次の日1~9までの数字のうち好きな数字を言ってごらんといいます。たとえば子どもが「8」といいます。

      12345679
          ×72
     888888888
   こたえは8の数字が並びます。

次の日は「6」といいます。      次の日は「3」といいます。

     12345679       12345679
         ×54            ×27
    666666666      333333333

 「2」が並ぶためには何をかければいいのか、「4」が並ぶためには?
と子どもたちに考えさせます。法則が見えてきますね。こんなに難しい計算も知りたいという気持ちから一生懸命する子どもの姿が見えるようです。
 ある子は、12345679と並んだ数字に「8」が何故ないのかという疑問を持ちます。そんな場合はすぐに答えは教えません。本当に知りたい子が数人出てくるとヒントを与えます。
 それを見つけるためにはプロセスを逆にやってみるのです。掛け算をするかわりに割り算をするのですね。あなたはわかりましたか?

 次の問題も面白いですよ。
a0071985_1714428.jpg
  
 この数字を4つ足して34になるパターンを探します。あなたはいくつ見つけられましたか?

 この問題をしているとき、子どもたちはどういう算数をしているのでしょう。教育的にはどのように役に立っているのでしょう。
足し算、引き算をしています。パターンをさがしています。分析をしています。思考を活発にしています。数学的に思考することは精神的な活動でありとても健全なものだとベンさんは言います。
 もう一つの要素は楽しいということです。楽しみは感情です。クラスの中のすべての子どもが活動することが出来ます。算数の得意な子は先まで見つけることが出来るし、苦手な子どもも何らかの活動が出来ます。
 算数を教えるときに気をつけなければならないことは、ある子どもは60見つけることができ、ある子は10しか見つけられないということがあります。少ししか見つけられない子が、「自分は劣っている。」ということを感じさせないようにすることが大切です。比較することは毒になります。成し遂げられたことを認めてあげてもう少し以上に進むことが出来るように促すのです。

2年生の終わりには、答えが100になる問題を3つ出します。
たとえば
 33+15+9+23+11+9=100
 68+10+14+7+1=100
 7+19+41+18+6+9=100       7
 
 次の日は111になる問題を出します。次は、答えが121します。次は、131、次は151にします。

 これは、ゲームをしている感覚です。思考のゲームです。最初は足し算から始めます。答えがすべて美しい答えであること。答えにパターンがあることが原則です。たとえば
  2222、2525、3773などです。

 さらに進めて今度はグループに分けて答えがきれいな数字になる問題を考えさせます。
それが正しいかどうかは前もって子どもが計算をしていなければなりません。
 さらに、計算を足し算だけではなく、引き算も割り算も掛け算も入れます。
先生にも問題を出します。すごく難しい問題を考えてくるそうです。

3481+1742-36×40÷20=5151  など

 このような取り組みをした結果、計算をたくさんすることになります。
同じ計算をするのもドリルの問題をたくさんさせられるのと随分違います。
楽しくゲーム感覚でするのですから。

(3年生の算数)
 3年生になると子どもたちの意識が変わってきます。より現実的な世界に生きるようになります。3年生では博物学を学んだり農作業をするなど実際的な仕事をします。同じ意味で算数でも実際に計るということをします。重さ、面積、量、体積、距離、時間などあらゆることを計ります。3年生では複雑な計算はしません。体験として取り組むのです。

 現在ではほとんどはかるとき10進法を使っています。時間だけは10進法を使っていません。昔は様々なはかり方がありました。日本でも重さを量るとき匁とか貫が使われていました。長さは寸、丈です。面積を測るのは帖、坪です。畳1帖の広さはかっての日本人の成人男子が横臥して寝られる広さを基準に決められていたのだそうです。1坪はこれも、成人男性が生きていくのに必要な一日分の稲が取れる耕地の広さが目安になっているといわれます。
1インチは親指の先から一つ目の関節までの長さで決められていました。1フィートは足の歩幅です。ピラミッドを作るときの長さの単位は宇宙の星をもとにしているといわれています。

 色々なものを子どもたちに計らせます。教室の大きさをフィートではからせたり、坪の大きさを作って教室の面積を測ったりします。ピラミッドの底の大きさを校庭においてどれくらい大きいかを体験させた先生がいたそうです。
 
 ベンさんは決してメートル法から始めないで欲しいといいます。メートル法は最後にたどりつくものだと。メートル法は完全な人工的な長さだそうです。ナポレオンの時代に軍人が金属で出来た棒をもっていて、その棒の長さが1メートルになったのです。人間の体や宇宙のものに属してはいないのです。
 
 時間に関しても自分の経験を通して感じることが出来るようにさせます。
どれくらい教室のいすに座り続けることが出来るか実験します。5分も座っていられないことを体験します。また、砂時計や水時計を使ったり、日時計を作ったりします。

(4年生の算数)
 4年生では分数をならいます。全体からより強く自分が分かれた存在と感じるようになるからです。

分数のアプローチ
・分数の導入には、ピザや大きな板チョコ、ケーキを持ってきます。全体から部分に分けることを学びます。

 次に部分から全体へ
 教室の中に何人いますか?25人います。皆さんは25人中の1人です。
学校全体では何人の子どもがいますか。210人います。皆さんは210人の中の一人です。こういう風に聞くと皆さんは小さくなったように感じますか?
学校全体で記念写真を撮ると、一人ひとりがとても小さくなりますね。
この市には45322人の人がいます。この市の皆で写真をとることを想像してみてください。この部屋に皆入りますか?この庭に皆入りますか?たぶん無理だろうね。これらの人と写真を撮ることが出来るとしたら、どれくらい一人ひとりが小さくなるか想像できるかい。
 さらに進めて日本全体、世界全体と話を続けることができます。

  さらに5年生では、少数を習います。6年生ではビジネスに関わる算数を習います。利子、パーセントなどです。そして代数へと進んでいくのです。
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by higuchi1108 | 2008-04-23 14:02 | 算数・数のふしぎ

四季のお祭りと誕生日会

四季のお祭りと誕生日会
 どの保育園や幼稚園でも1年を通じで様々な行事が行われています。春や秋のさわやかな季節には遠足に出かけたり、日本の伝統的なお祭りである七夕や節分、おひな祭りなど四季折々にあった行事を行っています。

 それと同時に、運動会や発表会、作品展といった行事もあります。私は保育所に勤めていた時これらの行事に悩まされていました。特に運動会や発表会、作品展という行事は保護者の方に子どもたちの成長を見てもらうという目的が強くありました。親御さんにとって楽しみにしている行事でもあります。それだけに保育者にとってはプレッシャーになるのです。できるだけ見栄えのするものをしなければというプレッシャーから、子どもたちを練習に毎日駆り立ててしまうことにもなっていました。日常の生活を大事にしようと思っていても行事があると準備や練習に追われてしまって、日々の生活が行事のためのものになってしまうという状況がありました。子どもたちにとっても、いやいや練習させられたり、うまく出来ないと叱られたり、楽しいはずである行事が苦痛にさえなっていました。

 最近ではこのような疑問から従来の行事を見直し親子で楽しめる行事にしようと取り組んでいるところも出てきています。しかし、それとは逆にますますエスカレートして、幼児とは思えないほどの器楽合唱を披露したり、鼓笛隊を結成したり、様々に凝った作品を展示したりする園もあります。
 そもそも幼児期の子どもたちにとって「見せるための行事」が必要なのでしょうか。この年齢の子どもたちにとっての行事のあり方、考え方はどのようなものなのでしょうか。

 私たちの体や心にとってリズムがとても大切なものであることを学んできました。特に身体を形成する大切な時期にある乳幼児にとっては、リズムは欠かすことの出来ないものであることを学びました。タインさんは、一日のリズム、一週間のリズムと同じように一年のリズムもとても大切なものだといわれます。一年を通じて行われるお祭りや行事を毎年、同じ時期に繰り返すことによって、子どもたちは一年のリズムを体験します。同じお祭りを体験した子どもは、前年のお祭りの思い出がよみがえり来年もこのお祭りがめぐってくるのだろうと考えます。自然な繰り返しの中で思い出を重ねることは子どもの心を強め、安心感を与え、記憶力を高めるといわれます。

 私は昨年7月のはじめシュタイナー幼稚園に実習に行ったときのことです。聖ヨハネ祭の時でした。日本では「七夕」のお祭りがある時期です。毎年その幼稚園では「おとぎり草」の人形劇をされていました。年長の子どもたちは人形劇のセットを見ただけで「おとぎり草」の人形劇だとすぐに分かり
     おとぎり草を探しなさい
     お前がみつける 
     真夏の夜のおとぎり草は
     すべての傷を癒します      
と劇の途中に出てくるせりふを唱えて、人形劇が上演されるのを心待ちにしていました。
 一年前のことをこんなにもよく覚えているものだと感心させられました。年長の子どもたちは3歳のときから毎年体験してきているので記憶がすぐによみがえってくるのでしょう。

 私が小さかったときも、夏祭りのときはお小遣いをもらって近くの神社へ行ったこと、お盆にはあちらこちらの盆踊りに出かけて、そのたびにお菓子をもらったこと、年の暮れには近所の人たちとお餅つきをしたこと、節分のときはいつもいわしを食べたことなど…。楽しい思い出としてよみがえってきます。

 今の子どもたちはどうでしょう。特に都会に住む子どもたちはそういった体験が本当になくなってきているように思います。都会の人間関係が希薄になり、忙しさもあってお祭りを世話してくださる大人がいなくなったこと、子どもたちが少なくなったこと、家庭においても行事を大切にしなくなってきたことなどが原因でしょうか。そのように考えると幼稚園や保育園での行事の取り組みは大切なものになってきますね。

お祭りはいったいどのように始まったのでしょう。 
 タインさんは、人間と同じように地球も呼吸をしているといわれます。太陽の力が強くなっていく夏至の頃は地球の中のすべての息を吐ききった時なのだそうです。その時期、私たちの心も宇宙へと出て行ったような気持ちになります。それから少しずつ息を吸い込み始め、12月の冬至の頃は息を満タンに吸い込んでいる状態です。私たちの心も自分の内面に深く入っていると感じます。そしてまた徐々に息を吐き出し始めるのです。

 地球の呼吸が季節を現し、四季折々のお祭りになっているのです。西洋では12月にはクリスマスがあり、夏至の頃には聖ヨハネ祭があります。その中間に春分があり秋分があります。春分には復活祭があり秋分の頃にはミカエル祭があります。このように世界中で季節が移り変わる時期に様々なお祭りがあります。
 
 子どもたちには、このようなお祭りを通して地球の呼吸を感じ、季節の移り変わりを感じ、楽しい思い出を重ねられるような取り組みが必要なのですね。親御さんに見せるための行事は不要ですね。子どもの成長を見てもらうのではなく、逆に成長の妨げになっているような行事なのですから

お祭りを企画するには
・お祭りの意味を学びます。
 はじめに伝統的なお祭りが何故出来たのかを調べ、自分たちや子どもたちにとってどんな意味があるのかを考えます。お祭りの意味を親御さんにも知らせ理解を深めてもらいます。このことは子どもたちには話しませんが大人が知っていると自然に雰囲気の中に現れ、お祭りがより豊かになります。タインさんは意味を考えることによってお祭りに対して畏敬の念をいだくようになるといわれます。

・行事にふさわしいお話を考えます。
 本やインターネットでお祭りにちなんだ伝説を見つけます。お祭りの意味が分かっていたら伝統的な物語であっても自分で考えていいとのことです。

・お話が決まったら、お話を語るのか、人形劇にするのか、ライゲンで表現するのかを考えます。

・クラフトをします。
 たとえば、クリスマスなら羊毛で天使を作ったり、夏の行事ならちょうちんを作ったり、七夕飾りを作ったりします。

・食事会をしてもいいです。
 お祭りにちなんだ食事を作ります。

 シュタイナー幼稚園では、息を吐ききる夏至の頃と息をいっぱい吸い込む冬至の頃に、聖ヨハネ祭とクリスマスを大きな行事として取り組んでいます。そのお祭りには保護者の方も一緒に参加してもらい楽しい行事になっています。
 その他は小さな行事として、収穫をお祝いしたり、遠足に出かけたり、季節のお花を飾ったり、行事にふさわしいおやつを作ったりなど負担にならないように取り組んでいます。タインさんはたくさん行事があると一つ一つが弱められると述べておられました。

 また、精神、魂、体の3つの部分に働きかける行事をすることが大切だといわれます。たとえば、人形劇を見ることは精神的なものです。皆で一緒に食事をするのは社会的な行為で心の領域です。お祭りのための物品を作るのは身体の部分に当たります。これらの3つが行事の中でバランスよく取り入れられることが大切なのです。

 このようにしてお祭りが終わったら、次の日はいつもの生活に戻ります。子どもたちの心の中でお祭りのイメージが残り楽しい思い出になります。


誕生日会
 シュタイナー幼稚園では、季節の行事と同じように一年に一度必ずやってくるお祝いがあります。それは一人ひとりの子どものお誕生日会です。その子が生まれた日が休園日だったりすると仕方なく誕生日の前後にお祝いをしますが、原則はその子が生まれた日に誕生日会をします。私が以前勤めていた保育園では長い間、○月生まれのお誕生日会というように、その月に生まれた子どもをまとめてお祝いをしていました。今でも、たいていの保育園や幼稚園はまとめて月々にしているところが多いと思います。

 シュタイナー幼稚園で誕生日を四季のお祭りと同じように大切にしているのは、一人ひとりの子どもはかけがえのない存在であり心から畏敬の念をもって保育をしている現われだと思います。
 シュタイナーはどんな子どももこの世に生まれる時には、それぞれに果たすべき使命を持って生まれてくるといいます。その使命を果たすべく親を選んでやってくるのだと。

 私は親から虐待を受けて殺されてしまった子どものニュースなどを聞くと、「かわいそうに。子どもは親を選べないものね。」とよく思ったものです。でも、シュタイナーの考えでは、その子はそんな親を選んでやってきたのです。

 科学が発達した今では子どもを産むこともコントロールできる時代になりました。昔のように「授かりもの」という意識はだんだんとなくなってきて、子どもは「自分のもの」と思ってしまいがちです。自分のものなら、自分の思い通りに育てようとします。自分の思い通りにいかないとイライラし腹が立ってきます。このような考え方が子育てをより困難なものにしているように思います。自分の子どもであろうと人は皆それぞれ個性を持ち、違った精神を持っているのです。その個性を大切に育ててあげることが子育てです。

 子育て中に「私は、なんてだめな母親なのだろう。」と悩んだり落ち込んだりしたとき、「こんな私でも親として選んでくれたのだ。」と思うことができればどんなに勇気づけられることでしょう。

シ ュタイナー幼稚園のお誕生日会は保護者の方も園に来ていただき一緒にお祝いをします。誕生日会では、星の世界から天使に導かれてお父さんお母さんのところへ生まれてくるときのお話が語られます。「この子は私たちのところへ来てくれたのだ。」ということを確認することが出来るのです。

 子育てがとても難しい子どもがいます。心身に障がいをもって生まれてくる子どももいます。シュタイナーは、彼らはその困難な人生を歩むべく自分で選んで生まれてくるのだといいます。精神の進化を果たすために。そして、その手助けをしてくれるお父さんお母さんを選んで生まれてくるのだと。
 このような考え方があって、一人ひとりが本当にかけがえのない存在であること、一人ひとりに畏敬の念を心から持つことができるのです。


 “一人ひとりの子どもに畏敬の念を持つこと”これはシュタイナー教育をするものの基本的な姿勢です。
シュタイナーが教師に向けて書いたモットーです。

  畏敬の念をもって子どもを受け止め、
  愛情を持って教育し、
  自由の中へ解き放つこと。

           ルドルフ・シュタイナー
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by higuchi1108 | 2008-04-18 11:48 | 幼児教育講座

食事について

食事について
 現在は飽食の時代です。おいしいものが山のようにあります。食べたいものはなんでも手に入ります。また、手間暇かけて調理をしなくても手軽に何でも買える時代です。その半面、食の安全面で危機的な状況が訪れています。添加物だらけの加工食品、農薬づけの野菜、最近ではうその表示をしたりして摘発される業者が後を立ちません。何を信頼してよいのやら…。
 今の日本では飢えに苦しむことはなくなりましたが、私たちの知らない間にこういった食べ物によって心身が蝕われているとしたら怖いことです。アトピーや肥満、子どもなのに成人病に苦しむ子どもたちが増えています。これらの子どもたちはこのような状況の犠牲者なのでしょうか。

 しかし、このような不安から極度に食べ物に関して神経質になってしまうと生きにくくなってしまいます。こんな話を聞いたことがあります。小さいときから食べ物に気をつけ、家庭で調理した安全なものしか食べさせなかったお母さんがいました。その子が大きくなって大学に入り、大学の食堂で初めて食事をしたのだそうです。すると、すごいジンマシンが出てきたとのこと。ある程度、害のあるものでも食べて馴らしておかないと社会生活を営む上で障害が出てくるのでしょうか。
 また、「甘いものは子どもには一切食べさせません。」という方針のお母さんにも出会いました。おじいちゃんおばあちゃんのところへ行くと飴やらケーキやらを食べさせるといって怒っていました。子どもはおじいちゃんおばあちゃんとお母さんの間に立たされてかわいそうでした。
また、子どもには砂糖や肉は一切食べさせないという人にも出会いました。

 そうは言っても、子どもがアトピーだったら食べ物を制限せざるを得ませんし、まだ小さな体の乳幼児の子どもの食生活には細心の注意が必要なのは確かです。
 農薬や添加物の少ない食べ物を選んで与えることは大切です。基本は、より安全な食材で家で料理をしたものを食べさせることだと思います。でも、家にいるお母さんだってたまには息抜きしたいこともあります。両親が共働きの家庭では理想通りにはいきません。たまには、外食や加工食品、出来合いのものを食べさせることもしかたがないことです。
 また、家で調理する場合でもどんなものをどのように調理すればいいのでしょう。
食に関しては様々な考え方があります。色々な考え方に振り回されるのではなく「私はどうするのか。」ということをしっかり考えることが大切だと思います。
 考える土台として、シュタイナー幼稚園での食事やおやつはどのようなものなのか、シュタイナーの食に関する考え方はどうなのかということをお伝えできればと思います。

シュタイナーは、次のように言っています。
 「わたしは、どのようなものを食べるのがよいのかを扇動するつもりはありません。それぞれの食べ物がどのように作用するかをお話しするだけです。菜食主義者がきて、<軽い無力感があります。>ということがあります。そのようなとき私は、それは肉を食べていないからだといいます。客観的に考察しなければなりません。何かを強制することがあってはなりません。」と

マクロビオテック
 今、マクロビオチィックの食事が注目され取り入れている人も増えていると聞きます。ミカエル・カレッジの里子さんから考え方の基本を少しだけ教えていただきました。シュタイナーの考え方と同じところもあり、違うところもあります。

 マクロビオチィックの基本的な考え方は穀菜食といわれるものです。宇宙の秩序にのっとった食べ方で、具体的には玄米を主食とした穀物と、野菜、海草、豆類、大豆加工品などの味噌、醤油、塩、油を使って調理します。動物性食品や卵、乳製品をとることはなく、砂糖やみりん、はちみつなども一切使うことはありません。

何故、動物性食品を食べないのかというと、
 この世の中は「陰」と「陽」という二つの力のエネルギーによって構成され展開さているという考え方から来ています。「陰」は主に植物(野菜類)で、「陽」は動物(人間も含む肉や魚介類)です。陰―陽―陰―陽の大きな展開は宇宙の秩序をなしているといわれます。
「陽」は「陽」を反発し。「陰」は「陰」を排斥して結ばれません。動物(人間)が動物を食べることは宇宙の秩序を乱すことだといわれます。

 陰性のものは主に葉菜類、果物です。塩や醤油、味噌、漬物などは陽性です。その中間に穀物、根野菜、豆類、海草、お茶、油があります。陰と陽どちらかに偏ることなくバランスの取れた食事が理想なのですね。

 砂糖やみりん、はちみつなどをとらない理由
 これらの食品はとても陰性が強いものなのだそうです。こういったものを日常的にとっていると細胞は緩み、体は冷えていくといわれます。特に砂糖は体の中で燃焼するのに非常にたくさんのビタミンB1を必要とします。ビタミンB1が不足すると体は酸化してしまうので、これを中和しようと骨からカルシウムをとってしまいます。今の子どもが骨折しやすいのは砂糖の取りすぎが原因の一つなのかもしれません。

 また、食材選びの基本は、その土地、その季節に取れるもの、そして精白しない、皮をむかない、アク抜きしないことを心がけます。さらに大切なこととして、生命の糧となってくれた食物に感謝しよくかむことです。と書かれています。
 「生命なきものは、生命の糧とならず。」とは、細菌学者の三木謙三氏の言葉です。蒔けば芽の出る、保管しておけば成長、変化するものこそ生命源としての食物であり、栄養的にもバランスよく、栄養素が含まれているといわれます。この考え方は、シュタイナーの考え方も同じだと思います。
「陰」と「陽」を併せ持つ一つのものを丸ごと全部いただくという理念から、精白したり、皮をむいたり、アクをとったりということはしないのだそうです。

 里子さんの授業でマクロビオテック方式のきんぴらごぼうを作りました。
 ごぼうとにんじんをよく洗い千切りにします。もちろん皮をむいたりアクをとったりしません。それをなたね油を少し入れて弱火でゆっくりといためます。十分、炒まったらひたひたに水を入れ、ふたをして蒸し煮します。最後に醤油で味を調えて終わりです。野菜の中のうまみが出てとてもおいしかったですよ。アクも旨味に変わるのですね。


 では、シュタイナーの食に対する考え方はどうなのでしょう。
小児科診療室(シュタイナー教育・医学からの子育て読本)の本によると

砂糖については
 砂糖は生命のない無機物に近いものです。エネルギー源としての砂糖は、植物の緑色の部分で形成され、根、茎、葉、花もしくは果物の中に蓄えられます。  人間にとって砂糖は一つのエネルギー源ですが、人間は砂糖のエネルギーを使用する上で自分で消化活動を行う必要はないのだそうです。つまり砂糖は新鮮な植物とは違って臓器の生命活動を呼び覚ますことがないのです。むしろ、体が健康であれば、自分で十分に作り出せるはずの物質を砂糖は変わりに補ってくれるのです。とあります。

 健康なときは砂糖をとらずに過ごしたほうよいということでしょう。でも、この本の著者であるグレックラー氏は、体が病気だったり疲れきっていたりするときは砂糖を取ることによってエネルギーを補給し消化活動を助けてくれるといいます。
 砂糖なしで育てられ、成長がおもわしくなく皮膚の色も青ざめていた乳児が、食事の中の糖分を3パーセント増やしただけで数週間のうちに元気になったという例があるそうです。このような時は砂糖は非常に効果のある物質だというのです。私たちも心身が非常に疲れているときには甘いものが無性に欲しくなりますものね。
 グレックラー氏は、砂糖を何が何でも食卓から追放せよというのではなく、砂糖は子どもの気質や体質に応じて適度に使用されるべきものです。と述べておられます。胆汁質と憂鬱質の人は甘いものをたべるとよいと言われています。

 ただ、気をつけないといけないこととして甘さは、なぐさめ、包み込み、支える作用があるといいます。
このような作用は、砂糖の摂取を頻繁に繰り返す傾向を引き起こすのだそうです。砂糖中毒になった子は、落ち着きがなく、忍耐力や集中力を欠くようになると。子どもが好んで飲む市販のジュース類の中には大量の砂糖が入っているので要注意です。

 もう一つの注意点として白砂糖は控えめに使うべきだと言われます。白砂糖は結晶化が何度も繰り返され、すべての付随物質が取り除かれています。まったく生命のないものになっているのですね。

 はちみつは、単に砂糖の代わりに使うべきではないと書かれています。はちみつは非常に強い作用をもつ物質であり、人間の代謝系に多面的な刺激を与えるのだそうです。日本では、抵抗力の問題からはちみつを与えてもよいのは1歳を過ぎてからと指導されています。

人口甘味料の使用はお勧めできません。

卵、肉については
 人間の体は、たんぱく質を構成するすべてのアミノ酸を自分で構成することは出来ません。生きるために必要なアミノ酸は、食べ物を通して摂り入れなければならのです。この必須アミノ酸はあらゆるものにふくまれますが、動物性の肉製品、卵の中に豊富に含まれているのだそうです。牛乳の中にも十分に、また豆類の中にも少量ではありますが含まれています。

いつから子どもに卵や肉を食べさせるべきなのでしょう?
 母乳はたんぱく質の量は少ないですが、生まれて間もない赤ちゃんにとっては疑いもなく最良の栄養です。グレックラー氏は、生後3年間は自然によってもたらされた母乳の栄養モデルに従うことが理にかなっているといわれます。つまり、乳製品、穀物、野菜、果物などいわゆる乳菜食を続けるということです。

 生後数年間は、卵や肉を避けたほうがいいという理由はもう一つあります。卵や肉には体の成長や体重の増加を加速する作用があるそうです。人間は動物と違って、身体の発達の速度がとても遅いのです。それによって心と精神の発達が可能になるのですと。

 また、たんぱく質を植物から摂取することによって、神経組織を新鮮にする力を発展させることができるのだそうです。

 幼児期には乳製品や野菜を中心にした食事をし、それ以降はそれぞれの子どもの欲求に合わせて変化をつけ、質的にも問題のない食事を与えるということです。

 しかし、たんぱく質は人間にとってなくてはならないものですが、量は決して多すぎてはいけないそうです。動脈硬化の大部分は、たんぱく質の摂取過剰が原因によって引き起こされます。血液がどろどろして黒ずんでくるのですね。

乳製品については
 日本人をふくむアジヤの人間は乳児期をすぎると、乳糖を分解する酵素の活性が低下していくのだそうです。生後2,3年目からは乳製品を取るべきではないという考え方もあります。私は、牛乳を一気飲みすると下痢をします。
一人ひとりの体質によるものなので、必ずしも牛乳がよいとか悪いとか決め付けられるものではない。と書かれてありました。

穀物について
 グレックラー氏は、食べ物を選ぶ上で積極的に穀物を取り入れることには意味があると述べています。

 シュタイナーは、人間の神経・感覚系のはたらきは、植物の根のはたらきに対応している。人間の新陳代謝のはたらきや生殖機能は植物の花に対応している。リズム機能の血液循環と呼吸は植物の葉に対応している。と述べています。
 「種」である穀物は根や葉や花の部分の食べ物とは違って、体に一面的な作用を及ぼすこともなく、むしろさまざまな身体機能が調和するように支えてくれるとのことです。
マクロビオテックの「陰」と「陽」の考え方でも穀物は、その中間にあります。

 シュタイナー幼稚園では、様々な穀物を使ったおやつを曜日ごとに提供しているところが多くあります。
たとえば
 メルヘンこども園のおやつ(6人分)
月曜日 玄米がゆ
    カップ1杯弱の玄米に4倍の水をいれ、圧力釜で炊く。重りが動いてから弱火にして    20分炊く。火を止めて15分たったら食べる直前にレーズンを少々入れる。

火曜日 はとむぎだんご
    はと麦、カップ8分目。水は耳たぶくらいの柔らかさになるくらいの分量をいれて丸める。   30分蒸して、メープルシロップをかける。

水曜日 きびがゆ
    カップ1杯弱のきびに4倍の水を入れて圧力釜で炊く。重りが動いたら弱火にして20分     炊く。火を止めて20分蒸す。食べるときにしそふりかけをかける。

木曜日 天然酵母パン
    強力粉1カップ、ライ麦粉半カップ。酵母、塩少々を水をいれ弾力がでるまでよくこねる。    冷蔵庫で一晩発酵させる。
    オープンで焼く。100度 10分、 150度 10分、180度 10分

金曜日 ミューズリー 
    オーツ麦1カップ、りんご(2,3ミリの薄切りにし、棒状に細かく切     
    る。)レーズンを器に入れ、牛乳を注ぐ。季節の果物やナッツを入れてもよい。
 
 食事を提供している園でも、メニューはたいてい玄米ご飯と野菜いっぱいの具のたくさん入った味噌汁やスープです。

 食材も有機野菜、バイオダイナミック農法で取れた野菜を使っておられました。シュタイナー幼稚園の食事は決して豪華ではありません。とても素朴ですが、私はとても贅沢な食事に思えました。また私は、子どもにはたくさんのメニューを用意し色々な種類の食べ物を食べさせることがよいと思っていました。でもそうではないのですね。いつも同じものを繰り返し食べることで子どもは安心するのですね。いつもと違うメニューが出てくると緊張して食べない子どもがいました。子どもにとって繰り返しが大切であることは食事でもいえることなのですね。スイスのシュタイナー幼稚園のおやつは毎日毎日、パンとりんごのペーストでした。

人間の持つ歯の構成から見てみると
 門歯8本…果物、野菜を切る歯
 犬歯4本…肉を噛み切る歯
臼歯20本…穀物をすりつぶす歯

「穀物5:菜2:肉1 の割合で食べなさいよ。」と歯の構成を通して体が教えてくれているようです。

 人間は穀物を主に食べるように出来ているのですね。穀物は「種」です。種から芽が出、やがて実をつけます。生命あふれる食べ物です。

 このような生命あふれる食べ物は、太陽や土の恵みからもたらされました。それらに感謝する気持ちも忘れてはなりません。シュタイナー幼稚園では感謝の心を育てるために、お祈りをして食事をします。

うた
 大地が作り、太陽が実らせた。
 ありがとう太陽、ありがとう大地
 感謝していただきます。
祈り
 大地はこれらをくださいました。
 太陽がこれらを実らせました。
 愛する太陽、愛する大地
 私たちは、決して忘れません。
 いただきます。

 また、食卓にお花を生けて飾ったり、食事の準備を年長児が手伝います。
お料理のお手伝いも子どもたちは大好きです。野菜を切ったり、材料を混ぜたり、こねたり、パンを形作ったり…。
タ インさんは「料理は芸術です。そして時には癒しになります。料理は子どもたちに実生活に触れさせ、喜びをもたらし、自分は役に立っていると自信をもたせてくれます。そして、母なる地球の恵みに思いを至らせてくれ、世界の人たちへの思いやりを育ててくれる。」といわれます。

 シュタイナー幼稚園のすばらしいところは、子どもたちが遊んでいるかたわらで先生が手仕事をし、料理をつくります。部屋中いい匂いが漂います。幸わせいっぱいの家庭があるのです。
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by higuchi1108 | 2008-04-05 16:57 | 幼児教育講座