皆さん、こんにちは。
長い間ご無沙汰してしまいました。夫が他界して一年が過ぎました。この一年は様々な思いが襲いかかってくる一年でした。夫がいなくなった寂しさや孤独感、悲しみといった感情から必死で逃げようとしていた私です。でも、逃げれば逃げるほどそういった感情は追いかけてくるのです。そんな時、ミカエルカレッジで共に学んだ友人がこんな詩をメールで送ってくれました。 ゲストハウス 人間という存在はみなゲストハウス。 毎朝、新しい客がやってくる。 喜び、憂うつ、いやしさ、そして一瞬の気づきも、 思いがけない訪問者としてやってくる。 訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい。 たとえ、それが悲しみの一団だとしても、 できる限り立派なもてなしをしなさい。 たとえ、それが家具のない家を 荒々しく駆け抜けたとしても。 もしかすると訪問者はあなたの気分を一新し、 新しい喜びが 入ってこられるようにしてくれるかもしれない。 暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪魔がやってきても、 扉のところで笑いながら出迎え中に招き入れなさい。 どんなものがやってきても感謝しなさい。 どれもはるか彼方から案内人として、 あなたの人生へと送られてきたのだから。 この詩を読んだとき涙が出て止まりませんでした。 逃げるのではなく自分の気持ちと向き合わなければ今の状態から抜け出せないと思いました。そこで、年末は一人で掃除をしながら様々なことを考えました。最初は泣きながらの掃除でしたが…掃除力ってすごいですね。家の中が少しずつ、きれいに片付いていくごとに自分の気持ちもごちゃごちゃでわからなかったものが少しずつ整理がついてきました。 そんな時、はっと気づいたのです。 私が流している涙は夫のことを想って流しているのではないということに。一人ぼっちで、寂しく、悲しい思いをしている自分がかわいそうで惨めで泣いていたのです。結局は自分のことばかり考えていたのですね。それと同時に私は今まで夫に守り支えてもらっていたのだということにも気づかされました。 自分の気持ちと向き合うとは、寂しい、つらい、悲しいと思っている自分とはちがうもう一人の自分がいて、そういった状況を客観的に眺めることができるということなんですね。 それからは、何故かシュタイナーの著書を掃除の合間に読むようになりました。 すると、今まで、難しい、わからない、興味なしと思っていた事柄が「ふーん、そういうことなんだ。」と思える箇所が増えていることにびっくり。 そして、私が今、まだ生かされているということは、この世でしっかり自立した生き方を学びなさいということなのだと思えるようになったのです。 自立とは、無私の心を養うこと。 1月6日の朝日新聞に「利益追わぬ投資を」という見出しでバングラディッシュの経済学者ムハマド・ユヌス氏の取り組みの記事が載っていました。彼は、今、世界中を吹き荒れている金融危機を乗り越えるために、社会問題に取り組む新しい企業モデルを提唱しています。氏は、「私たちは資本主義を誤って解釈している。ビジネスとは金儲けのことで、利益の最大化がその使命という。この解釈は人間を金儲けの機械と見なす。」と述べ、「すべての人間には利己的な面と無私で献身的な面がある。私たちは利己的な部分だけに基づいて、ビジネスの世界を作った。無私の部分も市場に持ち込めば資本主義は成功する。」というのです。 氏の提唱する社会的企業とは、投資家は特定の社会問題の取り組みに投資します。社会的企業は損失も配当もありません。社会に貢献する目的を持つ会社なのです。氏は、具体的に乳製品や飲料水の会社を設立されていて、目的はお金を設けることではなく、安全な水の提供や栄養不足の子どもたちの解消にあるのです。 氏の「私たち人間には、利己的な面と無私の面がある。」といわれた言葉が印象的です。氏の提唱する新しい企業は、人間のエゴイズムをどこまで克服できるかが成功への鍵ですね。でも、世の中には自分のことはさておいて人のために一生懸命働いておられる方がたくさんいます。何が彼らを動かすのでしょうか。 シュタイナーはこのような人間のあり方をどのように洞察しているのでしょう。シュタイナーの代表的な著書「神智学」をもう一度読んでみました。 はじめに、「神智学」とはどういうものか。シュタイナーは 人間が見上げることができる最高の存在を人間は神的なものと呼びます。そして、人間は何らかの方法でこのような神的なものとつながるという観点から、自分自身の最高の使命を考えなくてはなりません。 そのために、自己の本質と使命を人間に対して明らかにする感覚的なものを超越した知恵を「神的な知恵」、すなわち「神智学」と呼ぶことができます。と述べています。 人間には3つの領域があるというのです。 第一に私たちは、触れたり、嗅いだり、味わったり、見たり、聞いたりして、つまり体を使って知覚することが出来る世界に属しています。 第二に私たちは、感覚を通して知覚したものに美しいとか醜いとかいう感情を持ちます。私のように夫と死別するような事柄に出会うと、悲しい、つらい、寂しいという感情が押し寄せてきます。 でも人間はそれだけではないのですね。色々な事物に出くわしたら、そのことについて考えます。シュタイナーはこの考えることのできる部分を人間の自我あるいは霊、精神と呼んでいます。 そしてこの自我の中にも二つの領域があるのです。 一つは、感情の奴隷になっている自我です。快感、不快感、あるいは衝動や本能、情熱などの感情に仕える自我です。感情とはその人個人のものです。個人的なものですから利己的になるのです。幼い子どもの自我もこのようなありかたをしていますね。シュタイナーは、物質主義的な文化の本質は思考が感情に仕えるという点にあると述べておられます。思考力の大部分はこの感情の欲求を満たすために使われていると。 もう一つの自我は、感情に振り回されない、感情を乗り越えた思考です。自我が感情を支配するのです。感情を乗り越えて思考するとき、人間には物事の本質、真理、善が明かされるのだといいます。そして、人間は明らかになった真理や善に従って生きることも出来るのですと。これこそが私たちが目指すべき方向であり生きる意味なのだとシュタイナーは言います。 いつも感情に振り回されている私です。でも、私の中にも感情を支配することができる本当の自分がいることを信じて歩んでいきたいと思います。 さて、9月からオープンした「くすのき園」のことです。その後の報告をと思っていたのですがなかなか出来ずにいました。 皆様から暖かいエールを送っていただき、園児2名でスタートすることができました。ところが、オープンディーの次の日、両隣からうるさいと苦情が来てしまいました。家賃も安く趣のある家なのですが、なにせ古い長屋です。隣と壁一枚しか隔たりがないのです。音が響くのは当たり前だったのですね。積極的に園児を増やすことも出来ず、また、新たな場所をと考えると気持ちが落ち込んでしまいました。市内で一戸建ての家を借りようと思えば家賃はたかいし、家はどこも密集していて同じような苦情は避けられません。 都会の中で子どもの施設作りなんてやっぱり無理なのかと落ち込む私を支えてくれたのは子どもたちでした。子どもと一緒に過ごす時間は楽しく、日に日に関係性が深まる喜びを感じています。 また、昨年9月からはじめた学ぶ会や手仕事の会、体験保育も継続して参加してくださる方も出来、充実した時間になっています。本当に感謝です。 今は、あせらず日常の取り組みの中で方向性を見出していこうと思えるようになりました。皆さん、見守ってください。 #
by higuchi1108
| 2009-01-12 11:21
| 神智学入門
シュタイナー教育って何?
ミカエル・カレッジでの2年間の教員養成プログラムは終了しました。教わったことの半分も皆さんにお伝えできていないのが現状です。今の私には理解できないところも多く、なんとなく分るけれどどのように伝えていいのかわからないというところもたくさんありました。シュタイナーの思想を学ぶには2年間ではとても無理です。一生涯学び続けるというぐらいの覚悟がいります。けれどもシュタイナー教育って、いったいどういうものなのと問われたときに私なりに説明できるものをお伝えできればと思います。 シュタイナー教育というと ・芸術教育 ・自由への教育 などと呼ばれています。 何故、芸術教育なのか? 14歳からのシュタイナー教育という本の中にも、体育、音楽、絵画制作、オイリュトミーなどの教科をおろそかにしてはなりません。という文章が常に繰り返し出てきていました。小学校のメインレッスンにも、算数や地理や歴史といった授業でも歌をうたい、詩を朗読し、お話を聴き、絵を描きという授業がなされています。 先日、仲正雄氏(ドイツで治癒教育家として活躍されている)の講演を聞く機会がありました。氏はその中で 宗教(善) 芸術(美) 学問(真) この3つについて話しをしておられました。 昔は宗教が権威を持っていました。ガリレオは地動説を訴えたので宗教裁判にかけられました。今の時代は学問が権威を持っているといわれます。 学問的に証明されないかぎりそれは正しくないとみなされます。学問的に証明されていないものは学校で教えることはできません。でもこの世の中わからないものだらけです。特に人間の心なんて何も科学では証明できません。 仲氏は、芸術が権威になることはないといわれます。 社会が貧しくなると芸術が真っ先に切られます。また、機能が優先されている社会でも芸術が削られます。今の高校は音楽や美術は選択になっています。 また,仲氏は人間の中に宗教心があれば周りのものと一つになろうとし、学問は周りのものと距離を置こうとするといわれます。今の時代は宗教が消えて学問が中心なので人と人との間に距離が出来ているのですと。 一つになってしまって個がなくなってしまうことも危険です。かといって人との距離がありすぎると孤立してしまいます。 芸術は宗教と学問の間にあって、その中でどちらにも影響しあいバランスを取っているのだというのです。 意志 感情 思考 という心のとらえ方ではこの3つをバランスよく育てることが大切だといわれています。現代人は思考に偏りすぎています。バランスをとるため、その真ん中にある感情を育てることが重要になってきます。感情を育てるためには芸術が欠かせません。 世の中のものはすべて対極があります。小林直生氏(キリスト者共同体の祭司)の講演録に対極するもののどちらかに偏ると否定的な面が現れると書いていました。 たとえば けち 浪費 劣等感 思い上がり 杓子定規 無鉄砲 冷酷 感情過多 現在執着 現実逃避 私たちの健康を考えたときも、神経感覚系や四肢代謝系に偏ってしまうと病気になります。芸術は両極のどちらにも働きかけてバランスを取ってくれるものなのですね。 では、自由への教育とは何か? シュタイナーのいう自由とは、自分の思い通りに何でもできるというものではありません。「自由の哲学」の本から学んだことは、権威からの解放と倫理的な態度です。 「自分が自分の行為の動機・理由付けを自分の外に置いた瞬間にそれは非倫理的な行為になる。自分がその行為に対して愛情を持つことができるならば、それは倫理的・道徳的な行為になる。」 というものでした。権威のある人や社会的に偉い人が言ったからするとか、社会が求めているからするとか、誰々のためにとかではなく、自分が好きでたまらないからするのです。それが倫理的・道徳的な行為になるというのです。いくら立派な行為をしたからといって、その行為が好きでやっているのでなければそれは偽善になってしまいます。自分が愛した行為をするときは、誰にも文句は言わないし責任も取れます。自分の考えを他人に押し付けたりしません。他人の意見も受け入れられます。何より、その人は幸せな人生を送れます。そのことの結果として人々の役に立つような行為が出来ているのだと思います。 シュタイナーはこのような、「自分の好きなことは何か?」を見つけることができ、それを行うことが出来る子どもに育てること。そのことを教育を通して育てようとしたのではないかと思います。ここが、シュタイナー教育が自由への教育といわれるところなのだと思います。そして、自分の好きなことを見つけそれを行うことができるためには、意志、感情、思考のバランスが必要なのですね。 次に、教育を行う側の大人はどうあるべきなのでしょう。 シュタイナー教育の方法論を学び実践できる能力を身につけることも大切なこととしてありますが、その根底に流れているシュタイナーの思想を抜いてはうわべだけのものになってしまいます。シュタイナーは教育を行う根底には次の2つのことが大切だと述べています。 ・一人ひとりの子どもは、かけがえのない大切な存在だということを認識する。 ・自分自身の精神の成長を目指す。 これは当たり前のことといえば当たり前のことなのですが、ただ口先だけで言うのではないのです。シュタイナーの深い思想がこの中に含まれています。 シュタイナーの人間観を学びました。 人間はとてつもない長いときを経て、肉体、魂(心)、霊(精神)の3つからなる存在になったというのです。3つのうちの霊(精神)は、他の誰でもないその人だけの核となるものです。その霊(精神)は死んでも無くなるのではなく、幾度も生まれかわり、その人の核である精神の成長を促すのだといいます。死後、肉体のなくなった魂と霊は精神界にいき生前の行いを悔い改めるのだそうです。そして、その人の霊は次の生で前世の償いをしようという使命を持ってまた地上に生まれてくるのだというのです。 このようなことは証明できるものでもなく、学問が中心になっている現在においては受け入れられないこととしてあります。 ワルタービューラーという人が書いた「人智学の死生観」という本を読みました。 「私は何のためにこの世に生まれたのだろう。」 「私は生きていることに意味があるのだろうか。」 彼はこの問いに答えが見いだせないで苦しんでいる人々が増えているといいます。 脳に障害を持ったり、知的障害児として生まれてきた子どもたち、あるいは精神障害のあるものとして生涯を養護施設で過ごさなければならない人は、その目標を設定したり、それを自分のものにする能力を全く欠いているのでしょうか。その人たちに人生の意味があるのでしょうか。治癒の見込みのない生命は生きている意味がないのでしょうか。健康で生まれる人がいるのに、生まれつき虚弱な人がいるのは何故なのでしょうか。この世には不公平が支配しているのは何故なのでしょうか。 この本の著者は、これらのことが神の不在、無宗教を助長し、心が満たされない不安な状況を強めているといいます。そして、人間の核となる精神の再生を可能なものとみなさない限り、人生に意味と運命の謎を徹底して考えたことにならないと述べ、人生の再生は無数の謎を解くことができ、心を鎮め充実させる感情を引き起こしてくれるのだといわれます。 この繰り返される地上での生の本当の意味は人格を持った一人ひとりの人間がさらに発展し高められていくことであり、来るべき地上での生を眺めることは、この世での様々な辛苦に意味を与え身に受けた不公平をも希望によって乗り越えさせてくれるのですと。 ビューラー氏は、この世で障害をもって生まれた人々は来世では健康な体を持ったものとして生まれ、その人に対して行ってきた様々な援助や介護は、返礼をするという強い意欲をその人の中に呼び起こします。この障害は、厳しい試練に耐えて生きぬかれた人生の体験となると共に、新しい能力とさらに高められた自己の発見のための原点を形作るのですと述べています。 また彼は、色々な人種やいろいろな国に生まれ変わるという再生の思想は、国家主義、民族主義を乗り越えます。個々の人間の持つ遺伝、血統、そして過去のしがらみをはるかに越えて、人間存在における霊的な中核に私たちの注意を向けさせます。再生の思想は、人類を一体ととらえる考え方を可能にしますといわれます。 また、地球は決して「後は野となれ山となれ」と考えて好き勝手に出入りできる宇宙船ではありません。それは数十億年をへて完成し、自然界の完璧な生態的均等の元で計画され、さらに心をこめて整えられた愛の力に呼び招かれた「私」としての実在する人間の発展の場なのだ。という地球に対する責任感を生み出します。 さらに著者は、中世から近世への目覚しい変転をコペルニクス的転回と呼ぶのだそうですが、再生とカルマの認知は、人類と地球との救済に向けた霊的な意味での同等な転回をもたらすでしょうと述べています。 輪廻転生という思想は、私たち一人ひとりの人生に意味を与えてくれるばかりか、今、地球上で起こっている様々な問題に答えを見出すことができ、私たちがどのように行動するのかを明確に指し示してくれるものだと思います。 障害者を「価値ない生命」とみなし、ガス室へ送ったナチ政権のことは有名ですが、現在でも治癒の見込みのない病気を持った人に対する安楽死の問題や生まれる前に障害があることが分かると堕胎することが認められる法律があること。また、重い障害がある子どもを親が殺してしまうこともあります。 その人たちが生まれ変わったときには、今度は重い障害を持った人々に対して献身的に尽くす愛にあふれた人になるのだという認識があれば、価値なき生命として抹殺することなど許せるはずがありません。 また今でも、民族の違いや宗教が違うということからくる争いに終止符を打つことが出来ない状況があります。自分自身が今度生まれるときには必ず違う人種、国に生まれるのだとすると、民族間で争うことなどおろかなことです。 また現在、環境問題は深刻さを増しています。次に生まれる子のために地球をきれいにしておかなければと唱えても、自分のことではないと思うと所詮人事で今の便利な生活の方を優先してしまいます。しかし、死んだら終わりではなく、又、再びこの地上に生まれてくのだとすれば、地球を大切にしないではおれなくなります。 私たち生きているものにとって、「死」は避けては通れないものです。誰でも必ず「死」はやってきます。死んだらどうなるのか、死んだらすべて終わりなのか、分からないことには不安や恐怖がついてきます。元いたところに帰るのだという思いがあれば不安や恐怖もなく安らかに最後を迎えられえるのではないでしょうか。また、家族や友人たちの悲しみも和らぐのではないでしょうか。 この本の著者が言うように再生の思想は、現在の世の中にコペルニクス的転回に匹敵する転換をもたらしてくれると思いました。 しかし私も含めて、今日の自然科学に規定された考え方に立つ現在人には、再生の思想を受け入れることはなかなか難しいと思います。 このような人間観を私自身どのように受け入れたらいいのかずっと悩んできました。本当のことと思いたいという気持ちはありましたが確信を持つことができずにいました。 ところが突然昨年の12月に夫の死と遭遇することになってしまいました。死んだらもう終わりなのでしょうか。全部なくなってしまうのでしょうか。感じたり、考えたりするための肉体がないのですから精神も魂も存在しなくなるのでしょうか。まだこの世でやらなければならないことが残されていたらそれはどう精算されるのでしょうか。 このように考えるのはとてもつらく、肉体はなくなっても、目には見えなくてもどこかで存在して私を見守っていて欲しいと思うのです。 そんな時、6歳になる孫の乃海が「じいちゃん、お月様にいてるねんで。ノアちゃん見た。」というのです。この言葉で私は確信を持つことが出来ました。小さな子どもの言うことなんてと思われるかもしれませんが、小さな子どもの言うことだからこそ信じられるのです。まだ精神界に近い存在である小さな子には実際に見えるのだと思います。 シュタイナーの思想は、親しい人との死別を体験した私の心を本当に慰めてくれるものになりました。 「教育の基礎としての一般人間学」の本の第1講のシュタイナーの言葉です。 私たちの課題は、知的情緒的なものではなくこの上なく道徳的精神的なものです。あらゆる領域で人間の利己主義が支配しているこの世相で、私たちは戦いを挑まなければなりません。それには、誕生について、死後の進化について理解を深めること。意識的になることが求められます。生まれる以前に高次の存在たちによって配慮されてきた事柄を、今、教育によって継続されなければならないということを私たちは意識したいと思います。 R シュタイナー 子どもたちが好きなことを見つけるということは、その子のこの世での使命を見つけるということです。教育によって一人ひとりの子どもの使命を見つける手助けをするのだということなのですね。 私自身も使命をもって生まれてきたのだということを改めて自覚したいと思います。あと何年生きるか分かりませんが、そのことを意識しつつ自分自身の精神の成長を目指すことができればと思っています。 私はこれから大阪の地でシュタイナー教育に基づく乳幼児の保育の場を作ることを目指したいと思っています。様々な困難が待ち受けていると思うのですが、シュタイナーが学校を設立するに当たって教師たちに向かって言われた言葉、 「その行為は日常的な行為なのではなく、宇宙秩序のための一つの祝祭行為なのだ。」 という言葉をかみ締めて歩んでいきたいと思います。 皆さん、小さな力しかない私ですがどうか応援してくださいね。これからも、保育の場作りのこと、勉強したこと、感じたことなどブログに記載していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。 #
by higuchi1108
| 2008-04-26 10:21
| シュタイナー教育って何?
算数―数の不思議
ベンさんの算数の授業がありました。私は算数が苦手でした。小学校での算数というとひたすらドリルの計算をさせられていたように思います。それ以外のことは何も覚えていないのです。こんなつまらないことをして何の役に立つのだろうと思っていました。ところがベンさんの授業ではいやな計算も知らず知らずに一生懸命している自分がありました。「数」って本当に不思議と思わせる授業でした。知りたい、分かりたいと思わせる授業が子どもの勉強への意欲をもたらすことを実感しました。私も小学校でベンさんの授業を受けていたら算数が好きになっていたかもしれません。そんなベンさんの授業をお知らせしたいと思います。 数字というのは普遍的な言葉です。数字のシンボルは世界で共通です。音楽も全世界共通ですが文化的なものが含まれています。けれども数学は国が色々ちがっても数学を理解するのは同じです。ベンさんは、数学は言葉や文化にこだわりなくそこには意識が関わっているだけだといいます。そういう意味において算数は特別な教科ですと述べておられました。 まず始めに数学とは何か?という問いがありました。人間が作ったものなのか、あるいは宇宙から与えられたものなのかという問いです。皆さんはどう思われますか。 1、2、3…という文字は人間が作ったものです。10進法を使うのも人間が作ったものです。10進法というのは、指が10本あることから考えだされたものです。ですから1年生の算数では数を数えるとき指を使うことがとても大切です。でも、数字が10まででなくても、5まででも、7まででも、13まででもいいはずです。コンピューターは0と1しかありません。 「12」という数字は、とても不思議な数字です。一度も国と国とが接触していないのに世界のあらゆるところで宇宙を「12」という数字で認識していました。「12」は時計にも使われています。月も12ヶ月です。10の方が数えやすいのにも関わらずです。そもそも10進法というのはとても新しく、せいぜい100年ほど前から使われているものなのだそうです。 それまでは世界のあらゆるところで10進法ではなく、様々な計る方法がありました。何故、昔の人たちはこのような計り方をしていたのでしょう。その時代の人たちの意識は今と違っていたのでしょうか。現在の算数は、現在の意識と結びついているのでしょうか。 一般的な学校では何が出来て、何ができていないかしか考えようとしていないように思います。この子は割り算が出来ない、掛け算が出来るようになったなどです。べンさんは、算数というのは一方でとても現実的なものであり人間が作り出したものですが、同時にもう一方で精神的なものです。算数を教えることを通して世界を認識していくのだという視点を持つことが大切ですといわれます。 算数を教えるときに大切なこととして3つのやり方があります。 第1は実際的なものを使って算数をすること たとえば、お店に何かを買いに行くなど、実際の生活に結びついていることでアプローチすることです。 第2はリズムを通して働きかけます。 ベンさんはすべての数字は様々なパターンが織り成しあっているといいます。たとえば、 2、 4、 6、 8、 10、 12 14、 16 18 3 6 9 12 15 18 3の段の数字は一つ置きの数字が2の段と重なりあっています。 体を使ってそのリズムを体験するのです。 第3は純粋な数学といわれるものです。 数字そのものがもっている不思議にひきつけられるようなアプローチです。 病院の待合室で、9歳ごろの子どもが、「“5”て何?」とお母さんに質問していたそうです。「5冊の本、5枚のコイン」とお母さんはこたえていました。けれども「ちがう、“5”て何?」と子どもが何度も聞きます。この質問には大学生でも答えられません。この子は精神的な問いをしているのですから。ベンさんは純粋な「5」は地上的なものではないといいます。 教育をするとき、子どもの意志、感情、思考のすべてに働きかけることが大切です。ベンさんは数学は美しくなければならないといいます。そこには様々なリズムがあります。それは感情に働きかけます。 数学の問題が解けたときには大きな満足が得られます。驚きと真実を求めようとするとき思考が働きます。「私はわかった。理解した。」という満足が得られるものでなければなりません。 また、子どもは数学は善なるものだということを理解します。そして、算数は意志のための栄養になるのです。 ・体が覚えるということ 数学を教える大きな原則はまず体に教えるということです。頭がそれを理解するのは後のことです。意識的に学ぶのではなくまず意志と感情に働きかけます。 輪になってお手玉を投げ合います。向かい側の人に投げるときは距離が長いです。隣の人に投げるときは距離が短くなります。長いー短い。長いー短い。長―短 長―短のリズムは2の段のリズムです。 これは足でも体験できます。左足は音を立てずに歩きます。右足は音をたてて歩きます。2の段です。左、右と音をたてずに歩き、左で音をたてて歩くと3の段になります。これは音楽の2拍子や3拍子ともつながっています。繰り返し、繰り返しするうちに体が覚え、ようやく頭で理解することが出来ます。 ・最初は全体から始めるということ 7+4=□、12-9=□、3×8=□、27÷3=□ これらの計算の正しい答えは一つしかありません。答えは正しいのか間違っているのかの2つです。小さい頃からこのような質問を繰り返していると、ある人生の中で出す答えは一つだということを学び取ってしまいます。自分の考えた答えが正しいとすると他の人の答えは間違っていることになってしまいます。 17=12+5 =10+7 =1+1+15 … このように全体からはじめると、あらゆる子どもが答えを出してきます。全部正しい答えです。人生において、この人の考えもこの人の考えも正しいということを学びます。そのことを心に働きかけます。ベンさんは、算数は倫理的であり社会的なのですといわれます。 (1年生の算数) 1年生で足し算、引き算、割り算、掛け算の4つの計算を習います。1年生で全部の計算をするのはちょっと驚きでした。ベンさんは、違った性質を子どもたちに体験させるためだといいます。 これらを教えるときには簡単なストーリーを用います。 たとえば ちいさなアニーが町に行ってナッツを15個買いました。帰ってきたら9個しかありません。 手元に9つしかないのが問題の始まりです。最初はいくつあったのかな。いくつなくなったのかな。と考えます。 一般的によく出る問題は、 ちいさなアニーちゃんは15個りんごを買って5つ失くしました。いったいいくつ残っているでしょう。 この物語は現実的ではありません。実際は途中でいくつなくなったのかわからないからです。問題の中に、途中で友だちのメリーちゃんに2つあげてジャックに3つあげました。いくつ残っているでしょう。という問題なら現実にかなったものです。 また、この人は42歳でした。もう一人は72歳でした。この2人の年齢を合わせるといくつになるでしょう。これは意味のない物語です。 問題を出す場合には現実の生活にあったものであることが必要です。 私がとても感心させられた問題があります。それは次のような問題です。 ジャックは今7歳です。 妹のアニーは1歳です。 ジャックが8歳になると 妹のアニーは2歳です。 ジャックが9歳になると 妹のアニーは3歳です。 ジャックが10歳になると妹のアニーは4歳です。 ジャックが11歳になると妹のアニーは 5歳です。 … ジャックはアニーよりも何歳年上ですか?これは足し算でも引き算でも答えを見出せます。 7-1=6、1=7-6、6=7-1、7=1+6、1+6=7 これらすべての計算をこの問題は表現しています。次の年にジャックが9歳、10歳になっても答えは同じです。 けれども、掛け算になると状況は変わってきます。 最初のときは、ジャックはアニーよりも7倍の年でした。 7=7×1 7倍 次の年は 8=4×2 4倍 その次の年は 9=3×3 3倍 ・ ・ ジャックが12歳のときは 12=2×6 2倍です。 アニーはジャックに追いつこうとしているのでしょうか。いつか1倍になるときがくるのでしょうか。ジャックが24歳になったらアニーは18歳です。1年生の子どもには難しいですが数字が近づいていっていることがわかります。 「皆の年は7歳だよね。1歳のときとは本当に違うよね。12歳のときと6歳でも違うよね。みんなは48歳の人を知っているかい。そのときアニーは42歳だね。48歳と42歳の人の違いを言えますか。」 このように子どもたちに問いかけます。 現実の世界は掛け算と同じ事を実証してくれます。 数字の性質を知る たとえば4という数字だと、動物の足は4本、車のタイヤも4個です。5だと足や手の指の数、7だと一週間や虹の7色…このような話をして数字の性質を知っていきます。私が感心したのは3という数字の性質を学ぶために綱引きをさせるという話です。一本の綱をそれぞれ3人ずつ持って引っ張ります。この方法だと必ずどちらかが勝ちます。次に綱の真ん中にもう1本綱を結び3方向から引っ張ります。するとどのチームも勝たないことになります。どちらかが勝とうとすると2つのほうが負けまいとするからです。3というのは調和を表す数字なのです。 物事にはすべて両極があります。どちらかに偏ってしまうと否定的な面が出てきます。 過保護―放任、けちー浪費、無鉄砲―臆病などすべてにおいて調和が求められます。 (2年生の算数) 2年生になると大きな数字を習います。 12、345、679 この数字の1はただの1ではなく10、000,000 2は 2、000、000 3は 300、000 4は 400、000 5は 5、000 6は 600 7は 70 9は 9です 次に面白い問題が出ます。 12345679 ×9 111111111 子どもたちに計算をさせます。答えは1が並びます。 次の日1~9までの数字のうち好きな数字を言ってごらんといいます。たとえば子どもが「8」といいます。 12345679 ×72 888888888 こたえは8の数字が並びます。 次の日は「6」といいます。 次の日は「3」といいます。 12345679 12345679 ×54 ×27 666666666 333333333 「2」が並ぶためには何をかければいいのか、「4」が並ぶためには? と子どもたちに考えさせます。法則が見えてきますね。こんなに難しい計算も知りたいという気持ちから一生懸命する子どもの姿が見えるようです。 ある子は、12345679と並んだ数字に「8」が何故ないのかという疑問を持ちます。そんな場合はすぐに答えは教えません。本当に知りたい子が数人出てくるとヒントを与えます。 それを見つけるためにはプロセスを逆にやってみるのです。掛け算をするかわりに割り算をするのですね。あなたはわかりましたか? 次の問題も面白いですよ。 この数字を4つ足して34になるパターンを探します。あなたはいくつ見つけられましたか? この問題をしているとき、子どもたちはどういう算数をしているのでしょう。教育的にはどのように役に立っているのでしょう。 足し算、引き算をしています。パターンをさがしています。分析をしています。思考を活発にしています。数学的に思考することは精神的な活動でありとても健全なものだとベンさんは言います。 もう一つの要素は楽しいということです。楽しみは感情です。クラスの中のすべての子どもが活動することが出来ます。算数の得意な子は先まで見つけることが出来るし、苦手な子どもも何らかの活動が出来ます。 算数を教えるときに気をつけなければならないことは、ある子どもは60見つけることができ、ある子は10しか見つけられないということがあります。少ししか見つけられない子が、「自分は劣っている。」ということを感じさせないようにすることが大切です。比較することは毒になります。成し遂げられたことを認めてあげてもう少し以上に進むことが出来るように促すのです。 2年生の終わりには、答えが100になる問題を3つ出します。 たとえば 33+15+9+23+11+9=100 68+10+14+7+1=100 7+19+41+18+6+9=100 7 次の日は111になる問題を出します。次は、答えが121します。次は、131、次は151にします。 これは、ゲームをしている感覚です。思考のゲームです。最初は足し算から始めます。答えがすべて美しい答えであること。答えにパターンがあることが原則です。たとえば 2222、2525、3773などです。 さらに進めて今度はグループに分けて答えがきれいな数字になる問題を考えさせます。 それが正しいかどうかは前もって子どもが計算をしていなければなりません。 さらに、計算を足し算だけではなく、引き算も割り算も掛け算も入れます。 先生にも問題を出します。すごく難しい問題を考えてくるそうです。 3481+1742-36×40÷20=5151 など このような取り組みをした結果、計算をたくさんすることになります。 同じ計算をするのもドリルの問題をたくさんさせられるのと随分違います。 楽しくゲーム感覚でするのですから。 (3年生の算数) 3年生になると子どもたちの意識が変わってきます。より現実的な世界に生きるようになります。3年生では博物学を学んだり農作業をするなど実際的な仕事をします。同じ意味で算数でも実際に計るということをします。重さ、面積、量、体積、距離、時間などあらゆることを計ります。3年生では複雑な計算はしません。体験として取り組むのです。 現在ではほとんどはかるとき10進法を使っています。時間だけは10進法を使っていません。昔は様々なはかり方がありました。日本でも重さを量るとき匁とか貫が使われていました。長さは寸、丈です。面積を測るのは帖、坪です。畳1帖の広さはかっての日本人の成人男子が横臥して寝られる広さを基準に決められていたのだそうです。1坪はこれも、成人男性が生きていくのに必要な一日分の稲が取れる耕地の広さが目安になっているといわれます。 1インチは親指の先から一つ目の関節までの長さで決められていました。1フィートは足の歩幅です。ピラミッドを作るときの長さの単位は宇宙の星をもとにしているといわれています。 色々なものを子どもたちに計らせます。教室の大きさをフィートではからせたり、坪の大きさを作って教室の面積を測ったりします。ピラミッドの底の大きさを校庭においてどれくらい大きいかを体験させた先生がいたそうです。 ベンさんは決してメートル法から始めないで欲しいといいます。メートル法は最後にたどりつくものだと。メートル法は完全な人工的な長さだそうです。ナポレオンの時代に軍人が金属で出来た棒をもっていて、その棒の長さが1メートルになったのです。人間の体や宇宙のものに属してはいないのです。 時間に関しても自分の経験を通して感じることが出来るようにさせます。 どれくらい教室のいすに座り続けることが出来るか実験します。5分も座っていられないことを体験します。また、砂時計や水時計を使ったり、日時計を作ったりします。 (4年生の算数) 4年生では分数をならいます。全体からより強く自分が分かれた存在と感じるようになるからです。 分数のアプローチ ・分数の導入には、ピザや大きな板チョコ、ケーキを持ってきます。全体から部分に分けることを学びます。 次に部分から全体へ 教室の中に何人いますか?25人います。皆さんは25人中の1人です。 学校全体では何人の子どもがいますか。210人います。皆さんは210人の中の一人です。こういう風に聞くと皆さんは小さくなったように感じますか? 学校全体で記念写真を撮ると、一人ひとりがとても小さくなりますね。 この市には45322人の人がいます。この市の皆で写真をとることを想像してみてください。この部屋に皆入りますか?この庭に皆入りますか?たぶん無理だろうね。これらの人と写真を撮ることが出来るとしたら、どれくらい一人ひとりが小さくなるか想像できるかい。 さらに進めて日本全体、世界全体と話を続けることができます。 さらに5年生では、少数を習います。6年生ではビジネスに関わる算数を習います。利子、パーセントなどです。そして代数へと進んでいくのです。 #
by higuchi1108
| 2008-04-23 14:02
| 算数・数のふしぎ
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