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(3)4歳半~6歳までの子どもの心の成長

③共同性(規範)-主観性(自己)の統一(4歳半~6歳半) 
 この時期の子どもの特徴は劇が構成されるというところに見出されます。

劇が出来るとはどういうことなのでしょう。
 村瀬氏は、自分の意識の内部に一つの地平が形成されることだといいます。
地平とは、心の舞台であると。

 子どもが描く絵の中に、地面が描かれるようになるのは4歳半を過ぎてからです。意識の中に地平的なことが出来てきたことが、絵に地面を描きはじめたのだというのです。これは世界に地面があることを知ったから描きだしたというのではありません。それは、心の中の土台=地平の意識なのです。

心の地平とはなんでしょう。
 村瀬氏は、自分が何ものかの上に立っているということを意識することだといいます。自分が漠然として類的な大気の中で生活していた頃から、次第にその大気の中に自分の立っている地面が見えてきたのです。

 4歳ぐらいになると、いつも同じパターンの絵を描くようになっていました。
まず地面を描いて、その上に家とお花と女の子が乗っていて、空には太陽が輝いているという絵です。そんな絵をみて、いつも同じ絵ばかり描いてつまらないと思っていました。でも、違ったんですね。子どもは自分の心の中の土台を発見していたんですね。

 4歳半を過ぎると、自分の属するクラスの意識もはっきりとしてきます。
生活の中で、個別な場での対応とは別に、共同の場での身の振り方があるのだということを意識すること。それが、劇の発生する根本の構造になっています。

絶対規準の理解
 共同の場が一つの実体となって意識されると、そういう場での気持ちの出し方と、それ以外での気持ちの出し方の間にはっきりした落差が出てきます。
自分としては、こう。
皆としては、 こう。
こういうかたちの心の二重構造は、4歳半以前には決してみられなかったものです。

例として
 ブランコの順番を待つ場面では、3歳児は皆に「順番」と言われて、仕方なく待っている状態です。4歳半を過ぎると、順番待ちが確実にできるようになります。「自分はこうしたい、けれどもみんなの中ではこうする。」という二つの自己決定の間には、交換の成り立たない絶対的区別が立てられてきたのです。
自分の中に絶対規準が理解できてきたのです。

 つまり個人の気持ちや判断に左右されない絶対的な規準が、自分たちの外に存在することが、この頃になってようやく理解されるようになってきます。

勝ち負けの構造
 絶対規準を理解し始める頃から、子どもたちは競技における勝ち負けがわかるようになります。また、自分たち同士でルールを作って遊んだりできるようになります。
 4歳半までは、じゃんけんをしてもルールがわかっていませんでした。3歳児がかくれんぼをして鬼になっても、鬼の意味を理解したわけではありません。

 勝ち負けの理解は、約束事(ルール)が、2者間の取り決めとして受け止めているか、第三者によって判定されたものとして受け止められているかです。

 制定者の理解は、子どもたち同士でルールを作る道を開くことになります。
「こんなふうにして遊ぼうよ」
「こうしたら負けだよ。」
とルールを決めると、それはその制定者の個人のルールではなく、それに皆が平等に従うというあそびの形態になっていきます。

違反の意識、善悪の起源
 制定者の意識が出来てくると、そこから次第にルール違反の意識が形成されてきます。

 絶対規準に照らし合わせて、物事の良し悪しを決めるという判断の仕方は、4歳半までには出来ませんでした。

4歳半以降の嘘
 そうした良し悪しの判断が出来てくると、自分を正当化させる手段として嘘や作り話が出てきます。3歳のころの嘘は、可能性と現実性の混同としての嘘であり、本人にとって、ほとんど自覚されないままのその場かぎりのものです。

 4歳を過ぎて出てくる嘘は、明らかに嘘とわかっていて使われます。その本質は自分を正当化させるための嘘です。
 4歳以降の嘘は、自分を守り、自分を弁護し、自分を誇示するという自己防衛、自己確保の内容が含まれます。

 お母さんのお金を使って、
「しらないよ」と言い張る5歳児は、自分のしたことの違反性に気づいています。親が闇雲に問い詰め、しかりつけても自分を正当化する道を求め、嘘に嘘を積み重ねていくだけです。これは、一方的に違反者扱いするところから生じる現象です。その子に正当化のチャンスを与えない、ただ責めるだけでは何の解決もされません。この頃の嘘というのは、良いことをした自分、悪いことをした自分の間に立って、自己調整し、自己統一させようとする努力の現われなのです。

 「ただ責めるだけでは何の解決にもならない。」という言葉が身にしみます。私自身、なんとたくさんの失敗を繰り返してきたことでしょう。

時間の発見
 2歳半~4歳半までは、空間を発見し、4歳半~6歳半までは、時間を発見します。

 昨日、今日、明日といった時間の連続した意識はどうして形成されるのでしょうか。
 村瀬氏は、心の時間が成立する基盤は、今という意識の成立にあります。と述べておられます。

今とはなんでしょう。
 村瀬氏は、それは共同的なものに対する自己の意識の成立だというのです。
共同体と同時にいるという時間意識をもつこと、それが個人の中に今=現在の意識の原型を作るのだといわれます。

「昨日の続きをしよう。」といって、子どもたちがあそびをはじめるとき、子どもたちは「昨日」のことを「今」さっきあったもののように、切実に受け止めるということをしています。「昨日」のことが、心の時間として問題になるのは、それが過ぎ去ったからではなく、「今」でも切実なこととして「今」に関係づけられて受け止められるからです。

 4歳半までは、「昨日」のことは、過ぎ去ったことで、思い出されることはあっても、「今」に引き寄せられることはありません。
 4歳半を過ぎると、「昨日」は「今」に引き寄せられて、「明日」もまた、「今」になり「未来」もまた「今」になる可能性が出てきます。
 今の時間がどんどん広がりを持ち始めるのです。

他人の心がわかる
 5歳近くなると他人の身の上話がまるで自分のことのように切実に受け止められるようになります。
 ここでは自分が他人になり、他人が自分になるという自他変換の構造が形成されているのです。
 物語の主人公になって、物語を演じるような、劇的な構成に入ることが出来てきたからです。
 他人の心、他人の気持ちがわかるというのは、「今」という時間意識の形成とともに成立してくる心性です。

 これは、4歳半を過ぎて現れるアニミズムの理解につながります。
アニミズムは草や花、石、動物にも心があると思い込む一種の宗教的心性です。
これは、共同体を一者として受け止めるところからきています。

 目には見えなくても、どこにもないはずの共同意識が、あたかも一者の力のような人格の力として子どもたちに作用するからです。
 子どもたちは目には見えなくても共同性のあるところには、命令や禁止する誰か=一者がいることを仮定しないわけにはいかないのです。
 このように見えなくても、外には心があるという思いが、様々なアニミズムの現象をも同時に作り出しています。

 そういう外の心の読み取りが、同時に他の気持ちを自分のことのように読み取るという美しい現象となって現れているのです。

 このことは、幼児が宗教的であるということを意味するのでしょうか。

シュタイナーの「いかにして高次の認識を獲得するか」という本に中に、鉱物にも動物にも植物にも心があるように認識する行(練習)があります。
広々とした海、あやしい雲行き、こんもりとした森など、ものには表情があります。そのことを意識的に見ることができるような練習です。
自己信頼、気高い勇気、心の大きさ、持続力といったものが、物を表情として見ることによってもたらされるのだそうです。

 幼児のこのすばらしい心の在りようを私たち大人も学びたいものです。また、子どもが持っているこの心性を、壊さないように育んでいくことができるような大人のあり方をしていきたいと思います。

 金子みすヾという詩人は、大人になっても失われることなく、この幼児の心性が生き生きと育まれてきた人だと感じられます。みすゞの詩には、この世のあらゆるものの立場に立って、そのものの心を詠んでいる詩がほとんどです。            
   
      つもった ゆき
うえの ゆき さむかろな
つめたい つきが さしている

したの ゆき おもかろな
なんびゃくにんも のせていて

なかの ゆき さみしかろな
そらも じべたも みえないで

なんとやさしい詩なんでしょう。このやさしさが人々の心を打つのでしょう。
 大人になっても、人の気持ちがちっとも理解できない、わからないという悩みがあります。人とのコミュニケーションが苦手になり、人との関係がますます希薄になっている私たちの社会です。まず、自然と対話することからはじめてみたいと思います。

変形同一性
 変形同一性とはどういう意味かというと
 A列 OOOOOO
B 列 O O O O O O

6歳半までの子どもは、A、Bと並んだ○の数が同じ数ではなく、Bの方が多いと答えます。変形されても同一のまま残り続ける、つまり変形同一性の発見が出来ていないことを示しています。
純粋な数や量の構成が本当にわかるのは、この変形同一性(AとBは並び方がちがっても同じ数である)が発見される水準に達してからです。それは6歳半以降でないと達しません。

このことは、小学校で習う算数を、幼稚園や保育園の時代に教えても、数や量の本当の理解にはならないということですね。
小学校で習うことを先取りして教えるということが、他の子よりも早く勉強のわかる子になるというのは思い込みでしかありません。そんなことばかりに気を取られていては、この時期にこそ学ばなければならないことを学ぶことが出来ません。

構成運動―技の発見
 4歳半を過ぎると運動能力が飛躍的に伸びます。
スキップ、跳び箱、縄跳び、鉄棒、竹馬、棒のぼりなど
無理かと思うようなことでも教えると上手にできるのでびっくりすることがあります。以前、勤めていた保育園では年長児になると自分の背丈よりも高い竹馬を乗りこなせる子どもがいました。

 村瀬氏は、これは体の骨格や筋肉がしっかりしてきたから出来るようになったというわけではありませんと述べておられます。
 まず、自分の体についてのイメージが細かいところまではっきり意識されてきたこと、身体の各部分がそれぞれ分立して動くようになってきたこと、この二つの意図が重なり合って、たくみな運動の能力を形成することができるのですと。

自分の思い描くイメージに合わせて身体が構成化されていく、このことが構成運動なのです。

村瀬氏は、「技としての身体運動を獲得させるためには、こどもたちが自己意志をしっかり立てられるような工夫が必要不可欠であることはいうまでもありません。」と述べられています。
by higuchi1108 | 2006-10-03 20:48 | 子どもの心の成長
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