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シュタイナー教育の概要

(7歳~14歳)
 この時期の特徴は、感情が著しく成長するということです。

 7歳以前の感情のあり方は、好きか嫌いか、あるいは本能に基づいていて、お腹がすいた、眠い、痛い…などのときとても機嫌が悪くなります。7歳以降になると待てるようになります。我慢ができたり、自分の持っているものを他者に譲るということもできるようになります。他者の痛みや悲しみを理解できるようになります。体の心地よさだけではなく、心の心地よさもあるのだということを体験します。そして、善、悪の感情も育ちます。

感情を育てるためには

芸術としての授業
 シュタイナー学校では、授業そのものが芸術でなければならないといわれます。感情を育てるためには、体を動かすことによって体が育つように、たくさん心が動かなければ育ちません。心は動くことによって成長するのです。心が動くということは感動するということです。芸術作品はある人が感動してその感動したものを作品に表したものです。毎日多くの時間をとっているのは授業です。ですから授業は子どもたちの心が動くようなものを作る必要があるのです。教師が感動したものを授業という形で子どもに伝えるのです。

芸術としての授業とはいったいどういうものなのでしょう。
 それは、学習をやさしく楽しくすることではなく多くの芸術的習練を通じて子どもの意志を育てることにあるのだといいます。シュタイナー教育は、自由なイメージの教育ではなく非常に多くの訓練を要求します。そして、どんな教科もすべて子どもたちが身近に感じられるような生活と結びついています。

シュタイナー教育の具体的な特徴は

・エポック授業
 日本の学校のように1時間目が算数の時間、2時間目は国語と細切れの授業ではなく、朝の100分を同じ科目を集中して習います。しかもその授業は3週間から4週間に及びます。エポック授業は子どもに興味を持たせ集中させる上でとても効果的だといわれます。授業の内容を日常生活の意識の中だけではなく、子どもがより深く自分の中に取り入れることを可能にします。先生は3,4週間、ただ一つのテーマに集中することによってとても深くそのテーマに取り組むことが出来ます。

 でも、算数を続けて学んだあと、次に算数を習うときには前に学んだことを忘れてしまうのではないかという疑問が出てきますね。

 しかし、シュタイナーはいったん学んだ内容は次に続く時間の中で新しい能力に変容するというのです。かぼちゃを食べると消化され他のものに変容して私たちの血や肉となるように、変容するということはその子の力になったということです。知識は変容しませんが学んだことは変容し血や肉となるのですと。
 
 子どもが100分という長さの中で授業を休み時間なしで受けることが出来るのだろうかという疑問も出てきます。

 授業の内容は、集中する部分とリラックスする部分を上手に取り入れ芸術的な授業の流れになっているとのことです。授業そのものが呼吸のように緊張とリラックス、頭の作業と手足の作業、共同の取り組みと一人ひとりの取り組みというようにリズミカルな交代が行われています。

授業の流れ
1、リズムの時間
 朝の詩を唱え、歌をうたい、手をたたいて数を数えたり、歩いたり、円になって遊んだり、笛を吹いたりします。
 
2、繰り返しの時間
 前日、授業の中で身につけたものを子どもの意識の中に呼び起こし、繰り返し深めていくための時間です。

3、そして中心の授業があります。

4、書く時間
  授業で学んだことを自分のノートに書く作業です。エポックの授業によって、絵を描いたり、スケッチしたり、計算の課題をしたりします。

5、お話の時間
  先生はお話を暗記して子どもたちに語ります。
 お話の内容は
  1年生…メルヘン
  2年生…伝説(聖人伝説)、動物のお話
  3年生…旧約聖書のお話
  4年生…神話、英雄伝説
  5年生…神話、英雄伝説
  6年生…古代の歴史からのお話、
  7年生…中世のお話
  8年生…近代の歴史
 となっています。

・権威者としての教師
 この時期の子どもの心の中に権威に対する憧れが生まれます。そのため、教師は子どもにとっての権威者でなければならないといいます。子どもにとっての権威者とはどんな人のことをいうのでしょう。

 権威というとあまりいいイメージを持ちません。権威のある先生やお父さんのいうことは絶対で、どんなことがあっても聞かなければならないというような戦前の教育のイメージがまだ残っています。その反動から最近は子どもにとって友だちのような先生や親を目指す人もいます。

 権威者とはどういうものか、受講生それぞれが意見を出し合いました。皆の意見は、決して自分の権威を振りかざすような人ではなく、子どもたちがこの人のようになりたい、この人に従っていけば大丈夫、この人の教えてくれることを学びたいと思えるような人のことではないかということです。

 シュタイナーは、どんな教育も子どもたちが前の世代の人々や、自分より先輩の人々に対する尊敬の気持ちを持っていない限り決して正しい方向に向かうことができないといいます。年上の人々がこれまでやってきたこと、言い換えれば学校でこれから学ぶ事柄に子どもたちの敬意と尊敬が向けられること、それが大切なのです。7歳から14歳までの間、学ぶべきことがらを子どもが愛をもって、先生に対する尊敬の念をもって学ぶことができるかどうかが大切ですと語っています。このことは、今の学校の状況を考えると難しい問題です。でもとても大切なことだと思います。


・シュタイナー学校の授業ではすべての教科に、「全体から個へ」という考え方が浸透しています。

 たとえば算数の授業では、全体としての栗を12個持っている状態からそれを色々な方法で個に分けるというように教えられます。計算式で書くと
12=3+4+2+2+1
になります。この方法だと答えは一つではなく行く通りもあることが分かります。
       12=5+5+2
 でもいいのです。答えは無限にあります。12=1000-167-86-…という計算式を考えた子どももいるそうです。

 ヘルムート・エラー氏は、一つ一つ足していくのではなく、「分ける」という考え方は、自分の持っているものを他者に渡すということです。無意識的に利他主義の姿勢を持っています。反対に増えていく足し算は子どもの中の利己的なものを活発にさせます。はじめに全体的なイメージをもち、すべてがつながりあっていることを知ることがとても大切ですと述べています。

・9歳を境にその前とその後の授業のあり方が変わります。

 子どもが9歳ごろになると、環境世界からはっきりと自分を区別するようになるのだそうです。子どもの自己意識はこの頃より深まりそして強くなります。9歳以前の子どもには、物語の中で自然の様々な営みを話して聞かせます。本来の博物誌を9歳以前に始めてはいけないといわれます。
 自分と世界とは違うのだという意識がはっきりしだす9歳から博物学の授業を始めます。9歳までは主として芸術的な仕方で読み書き、計算を教えます。9歳からは博物学の授業を始めます。博物学は、人間の中にいわば全自然界が、鉱物界と植物界と動物界とがすべて高次の仕方で統合されていることを授業を通して持たせるようにするそうです。そして単なる物語ではなく本来の歴史的考察は12歳以降になってから行います。

・シュタイナー学校ではテストがありません。
 シュタイナーは、思春期に達する14歳以前に試験による不安をもたらされた子どもは、生理的なあり方全体を非常な危険にさらします。不安は子どもの生理や心理を妨害しますと述べています。
 先生は通信簿には親のための文章と子どものための言葉を書いて渡します。
親のための通信簿には、それぞれのエポック授業でどう振舞ったか、どう努力したか、進歩したか、どのように自分のエポックノートを作り上げたかを伝えます。子どもたちには、次の学年での子どもの課題を様々なイメージを用いて詩の形にして表現します。
 
 子どもに送る詩の例
  植物たちは探す。
  お日様の輝きを。
  暗い森の中に、暖かい光が差し込むように。

  僕も探す。しっかり考えることが出来るちからを。
  僕の中を貫いて、
  育み、そして高く成長するように。
 
 私は自分の子どもの学校での個人面談に参加するたびに、子どものテストの成績ばかり伝えられていたことを思い起こします。テストの成績がいいと安心し、悪いとがっかりさせられていました。それと同時に先生はテストの成績しか子どものことを理解してくれていないのではないかと不満にも思っていました。成績がよければすべてが出来る子で、悪ければすべて出来ない子と決め付けられていたようにも思うのです。先生も親も勉強が出来るかどうかとても気にするのですが内面的な生活への関心は二の次になっていました。

 シュタイナーは、教育において子どもの驚き、感謝、責任感をどう育てるかにとても関心を持っていました。驚き、感謝、責任感は子ども時代に育てなければならない能力だといいます。驚きは学問の始まりです。驚きの感覚が発達しなかったら冷笑的になる。感謝の感覚が発達しなかったらエゴイストになる。責任感が発達しなかったら破壊的になる。といわれています。シュタイナー教育は、自己と世界との和解をめざすもので、驚き、感謝、責任感はその礎石になるといいます。

 シュタイナー学校の先生になるためには本当に力量が必要になってきます。教科書もない、テストも行わない、学年の終わりにはそれぞれの子どもに詩を送らなければならない、授業は芸術的でなければならない、8年間の持ちあがり担任性、自分の気質を知って子どもの気質に合わせて接しなければならない、などなど…「自信がなくなってきた。」と悩んでいる受講生もいます。私はシュタイナー学校の先生ではなく、乳幼児の保育を目指しているのですが共に困難を乗り越え、自分自身の精神の成長のためにも目指す道を歩んで行きたいと思っているのですが…。

(14歳~21歳)   
 この時期は、精神的な力が著しく成長します。その精神性に支えられて魂が発達し本格的に活動を始めます。そして、自我が成長します。

 感情体が活動を始めることは異性への愛として現れます。この愛は普遍的な愛に成長して行きます。異性への関心は、人類に対する普遍的な愛の芽生えなのだとシュタイナーは言います。

 自我の成長は、自分で考え判断することに現れます。独立的な思考力、判断力が発達し、権威に対する感情が少なくなり消えていきます。権威から離れようとします。権威から離れられるのは権威のある人を持っていたからです。

教師のあり方は、
 0歳~7歳は…模倣する対象としてそこにいる。
 7歳~14歳は…子どもの前に権威者として立ち、社会を指し示す。
 14歳~21歳…理想を目指して共に歩む。

 14歳以前は、世界は向こうからやってきました。先生が指し示してくれました。14歳からは自分の足で世界に入ります。小学生時代は世界を知ることでした。これからは世界を理解することを求めるようになります。経過がどうなるかということから法則性を見出します。原因と結果を見出します。その物事の意図や目的を見出します。

 シュタイナーは、このとき大切なことは「謎」として提示することだと述べています。

宗教性を求めます。
 人間の力を超えた力や精神性に関心が高まります。それは精神の力や魂の力が発達するからです。感情体の働きによって美しいもの、善なるもの、真なるものにあこがれ理想を求めます。でも、現実の世界はそうではありません。だから人間の力を超えたものにあこがれるようになるのです。

理想や理念を求めます。
 自分はこうありたい、こうでなければならない。自分に対する理想を設定します。自分が描いた理想に向かって成長させようと努力します。このとき、今まで培ってきた想像力が大切になってきます。理想は目には見えないものです。理想を描くには想像力が必要です。想像する力がないと理想を描くことができません。青年は人生の山を登っていくとき、自分の導き手となる理想を必要とします。理想が導き手になるのだといいます。理想を描けないと人生の導き手も見出せないということです。想像力は本当に大切なものなのですね。

自我が成長します。
 自我の成長は、非常に強く自己主張するようになり、おしゃれに関心を持ったりすることに現れます。また、虚勢を張り、粗野な振る舞いをしたり、とても羞恥心を持つことにも現われます。

この時期には危険な道に入る子どもも出てきます。
 利己主義になり、異性にこびます。傲慢になったり虚栄をはったり、おしゃれが度を越します。セックスにおぼれたり、暴力を振るったりします。これは満たされるべき青年期の本性がみたされないからこのような危険に陥ってしまうのだといわれます。

この時期は、
    世界に関する関心
    美しいもの、崇高なものに対する憧れ
    倫理や道徳的な衝動

 この3つを満たすことが必要だといわれます。大人や教師はこのことを助けたり、促したりすることが大切です。

 「思春期の危機を乗り越える」ベティー・ステイリー著の表紙の裏に次のような文が載っていました。

 人生は生きるに値するのか。意味などあるのか。十代の子どもたちの心の奥には、こうした問いが潜んでします。周囲の環境からは、酒やドラッグでいい気持ちになれ、金儲けしろ、素敵な車を手に入れろ、権力を得よ、気持ちよくなれ、社会で成功しろ、といったメッセージが送られてきます。…大人たちは、政治についても社会改革についても冷ややかな態度をとっています。周囲には、いたるところに病んだ社会の相が見えます。それにもかかわらず、若者たちは社会への関心を失うことなく、なにか意味のある貢献をしたいと願っているものです。それはたたえられるべき彼らの強い本姓と善意のあかしなのです。…

 このような青年期の子どもたちと、理想を目指して共に歩む大人でありたいと思います。


 最初のシュタイナー学校は、第一次世界大戦が終結して間もない1919年に、エミール・モルト氏が経営するタバコ工場の労働者の子どもたちのために設立されました。シュタイナーは社会階級や経済状況に関わりなく、すべての子どもが12年間の一貫教育を受けられる学校を作ろうとしたのです。

 シュタイナー教育は本当に子どもの成長に沿っておこなわれているのですね。0歳~7歳は体の器官を発達させる時期であり、7歳~14歳は心を育てる時期であり、14歳からは精神を育てる時期であることが明確に指し示されています。体が十分育たないところに心も育ちにくくなります。心が育たないところに精神も育ちにくくなります。そのなかでも肉体がすべての基礎になります。身体を育てなければならないときに暗記させられるようなことばかりさせられた子どもは、体も心も精神も育つことが難しくなります。私たちは、とかく自分の子どもが他の子どもより早く色々なことが出来て欲しいと思ってしまいます。特に知的な部分では早くから教えることによってどんどんと先へ進んでいってくれるのではないかと思ってしまいます。その結果、思春期を迎えるようになってさまざまな問題に直面させられることになるのですね。

 日本が高度経済成長を遂げていたころは、一流大学に進学し、一流企業に就職すれば幸福な人生が保障されると信じていました。子どもたちを幼児の頃から塾に通わせて受験勉強を強いていました。バブルがはじけ、一流企業が倒産したりリストラにあったりするようになり幸福であるはずの人生設計が崩れてしまいました。私はこのようなレールには乗らなかったため、かえって幸せな人生だったのかもしれません。私は団塊の世代です。戦後の貧しい生活から豊かな生活を求めて歩んできた世代です。豊かで幸せな生活は「物」だったのです。電化製品から始まり、車、マイホームが人生の目標でした。今、ほとんどの物を手に入れることが出来るようになり人生の目標をどこに置いたらいいのか分からなくなっているのではないでしょうか。人生の目標は「物」ではないのです。シュタイナーは、人間は誰でもこの世で果たすべき課題を持って生まれてきたといいます。「自分の課題は何なのか。」子どもたちには教育を通して、私たち大人は自分を見つめることから自分の課題を見つけたいですね。そしてその課題を果たすことができる強い意志の力を養いたいと思います。
# by higuchi1108 | 2007-05-03 10:49 | シュタイナー教育の概要

自由の哲学

                         自由の哲学
 タイン・チェリー氏による「自由の哲学」の講義が3週間ありました。「自由の哲学」はシュタイナーが一番初めに書いた本です。タインさんはこの本はシュタイナーの著書の中でももっとも重要な本で人智学の基礎がすべて書かれてあると言われます。この本を正しく理解できたかではなく、学びとったことをエッセンスとして感じることが大切ですとも述べておられました。私は哲学書など読んだこともなく、この本を手にして数ページ読んでみたのですが、とても難解で書かれてある意味がさっぱり分からずお手上げの状態でした。タインさんはこの本を何十回と読み、自分なりの理解を深めていかれたとのこと。タインさんは分かりやすく様々な例を示してくださりながら講義をしてくださいました。一度も読むことが出来ない私にとって、本当に助けになりました。

 私たちはどんなものにも束縛されることなく自由に生きていきたいと願います。子どもたちも自由でのびのび育って欲しいと願います。私は保育所に勤めていた時、子どもを管理するのではなく出来るだけ自由にのびのび育てるためにはどうすればいいのかということをいつも考えさせられていました。のびのびした子どもを育てるために保育方法をめぐって様々な試みをしてきました。ある時は、決して叱らず自由に行動させてみようと試みたことがあります。子どもたちは、最初は恐る恐る悪さをしていましたが何をしても叱られないと分かるやいなや、花壇の花は引きちぎる、保育室の廊下に水をまくなどやりたい放題、無法状態に陥ってしまいました。こんな状態の中黙っていることが我慢できなくなり、結局この試みは3日と持ちませんでした。いくら自由でも道徳的な行いが出来なければただの自分勝手です。これは自由でもなんでもなく放任に過ぎないことを悟りました。集団の中で生活していくためには、ルールがありそれを守らなければならないことを子どもたちには伝える必要があります。

 そこで、今度は個々の子どものやりたいことを優先させるのではなく、大人が考え出したよい集団の姿を子どもたちに伝えるという試みをしました。たとえばハンディキャップを持った子や自分より小さい子には手助けしてあげるような子どもに育ってほしい、自分たちが使う部屋の掃除や皆の食事の用意(机の上を拭いたり、食器を並べたり)が子どもたち同士で協力して出来る子になって欲しいなどです。そんな中で積極的に大人の望むような行為をする子もいれば、大人の顔色を伺ってする子もいます。もちろん大人の思いなどどこふく顔で何にもしない子も出てきました。結局、大人が望んだ良い子ども像に縛られてしまい子どもを管理するということになってしまいました。見た目に、大人が望むようなよい集団になっていたとしても、心からそうしたいと思って行動している子どもばかりではないのです。そのような中では真の道徳心は育ちません。

 「自由と管理」、「個人と集団」、「道徳心」。このテーマはずーと持ち続けていたものであり、「自由の哲学」を学ぶ中で自分なりの答えを見出すことが出来ればと思っています。
 もちろん、大人の場合と子どもの場合は違います。シュタイナー教育は「自由への教育」といわれています。自由な人間を育てるためにはどのように子どもを導いていけばいいのか、自由とはそもそもいったいどういうことなのか、考えていきたいと思っています。

人間には自由があるのか?
 シュタイナーは精神的な活動だけが自由につながっているといっています。
私たち日本人は民主主義の国であり好きなことを考え好きなことが出来ると思っています。
 しかし多くの思想家は人間には自由がないといいます。私たちはプレッシャーや欲望を持ちます。そんなときは自由ではありません。生きるためには必要なものを食べなければなりません。また、個々人は自分の育った環境や教育によっても影響を受けます。自分の自由な意志で決断できないときがたくさんあります。しきたりや、習慣に左右され本当に思うことをすることが出来ません。

 しかし、シュタイナーは自由がないのは決断するとき、本当に目覚めていないからだといいました。たとえば、他の人がしているから私もするというのは、完全に目覚めていないからです。動機を本当に認識できれば完全に目覚めることが出来ると。

 動機はどこから来ているのか。
 動機はどこから生まれたのか。

 行動は何かの動機から生まれます。目覚めて行動することによって自由になれるとシュタイナーはいいます。
目覚めるということは思考するということです。真の思考が自由につながるのですと。


 では、真の思考とはどういうものなのでしょう?

思考の仕方には2つの考え方があります
 一元論と二元論です。一元論の中には、この世の中は物質だけが存在し精神的なものは存在しないという考え方と、物質的なものはなく精神的なものだけだとする考え方があります。二元論的な考え方は、精神と物質は別だということを究極にとらえる考え方です。
シュタイナーは、すべては一つから始まったのだと述べています。人間は自分というものを認識することが出来るようになったため、自分と他者、精神と物質というように分裂して考えるようになったのです。思考は二つに分裂してしまっているものを一つに統合させることを可能にするのだと。これが人智学的一元論の考え方です。

思考とは 
 思考についてタインさんは次のように説明してくださいました。
思考は知識の出発点です。ただ見ているだけではただの体験でしかありません。生まれたばかりの赤ちゃんは、考えるということがまだ出来ないので見たものをすべて受け入れ、ただひたすら体験をしているだけです。見たものについて考えるようになると思考の始まりです。見えるものは与えられたもので、選ぶことは出来ませんが思考は私自身の活動です。思考することによって知識を得るのです。思考は自由です。強制されるものではありません。思考は強い意志をもって行うものであり、意志の行為は私たちの自由な活動です。思考とは、精神的で私の活動なのですと。

 私たちは、何かを知覚します。そのことについて考えます。そこから概念が生まれます。ものの本質をとらえられる思考を概念といいます。乳児は成長するにつれて、自分と世界は違うということがだんだん分かってきます。いろいろなものをみて観察します。ワンワンとほえるものは「犬」というものだということが分かります。ワンワンとほえるものは、白い色のも、黒い色のもいる。それらをひっくるめてみんな「犬」というんだという概念が作られます。概念は見たものを思考することによって生み出されます。

 見たものを概念化するときには、知覚する人が重要になってきます。
見たものは人それぞれによって違うからです。木を遠くから見るのと近くから見るのと違います。遠くから見ると木は小さく見えるし、近くで見ると大きく見えます。また、近視の人が見るとぼやけて見えます。葉のついてない木を同じように見ても、一人の人は枯れてしまって寂しげだと思うだろうし、もう一人の人は新しい芽を発見し春の訪れを感じるかもしれません。そのときの感情やその人の気質によっても印象が違います。見たものが人それぞれで違っていたらそのものの本質にはたどり着かないのではないかという疑問が出てきます。

 シュタイナーは知覚し、思考し、そして概念が生まれる。このプロセスを何度も何度も繰り返すことによって真実にたどり着くのだといいます。調度、子どもが成長していくプロセスと同じです。赤ちゃんは母親がいなくなると泣きます。それは赤ちゃんの中に母親の像が描かれているからです。それが父親のイメージ、木のイメージ、犬のイメージと広がり概念化します。それを繰り返すことによってどんどんまわりの世界を知っていきます。体験が豊かであればあるほど、それが子どもの内的な世界を作り出していくのです。私たちも、知覚したものを思考し概念化する作業を繰り返し行うことによってよりそのものの本質に近づくことができるのですと。

では、道徳と思考はどのように関係しているのでしょうか。
 道徳的な行為は行動するときの動機に関わっているとシュタイナーは述べています。動機が本能的(性欲、食欲、喉の渇きなど)なものか、社会のルールやしきたり、習慣からしているのか、自分の好き嫌いでしているのか確認する必要があります。
社会のしきたりや習慣、本能や思いつき、そのときの感情などに左右されるのではなく、よく考え、その事柄を概念化させた上で行動に移すことが出来たなら、私たちは自由な行動が取れるといわれます。

 自由な思考が私たちの行為の源になっていれば、私たちの行為は自由であり、このときに道徳的な行為が出来るのです。
それと同時に、自分自身がその行為を愛していることがとても大切なことだといいます。道徳的になるためには、自分の行為を愛するべきだというのです。

 自由な人間の法則は、自分の行為を愛することです。

自分の行為を愛するとはどういうことなのでしょう。
 自分の愛することをするだけでは利己的になるのではないかという疑問がわいてきます。このことについてタインさんは次のような例を話してくださいました。

 思考せずに行動することは自分の愛すべき行動ではないといいます。
たとえば、お酒をとても愛しているという人が毎日毎日バーに行ってお酒を飲みます。そして酔っ払って家に帰り家族に暴力を振るいます。これは道徳的な行為ではありません。「お酒を飲むことを愛してる」。それなのにどうして道徳的な行為ができないのでしょう。道徳的な行為は私(自我)が決めることです。そしてはじめて自由になれるのです。お酒を飲むことは私が欲しているのではなく、体が欲しがっているのです。本当の私(自我)ではなく物質的な体が欲しているのです。

 本当に自分の行為を愛することが出来たら、他者も自由に生きることや他者の自由も理解することが出来るのですと述べておられました。


 人間はまだ半分自由で半分自由でないといいます。それは、知覚する内容も人によって様々ですし、個性や気質、その人の育ち方、教育、思考能力の差、体の状態が良いか悪いか、豊かな人生を歩んでいるか貧しいのか、そのときの感情のありかた、ストレスをためているのかリラックスしているのかなど様々な状況から判断せざるを得ないからです。なかなか自由に思考することが出来ないのが現状です。

 私たちは、自分自身が不自由な人間であることを自覚し、それを克服しようと試みたとき真の思考が出来るようになるのかもしれません。知覚したことを思考し、そのことを概念化させ、それが動機となって行動できたとき私たちは自由になれるのです。

概念化するとはどういうことなのでしょう。
 このことについても、タインさんは次のような例を話してくださいました。
物乞いする人にお金をあげるという行為は道徳的な行為なのでしょうか。お金をあげる行為がいいのか悪いのかよく考えないであげてしまっています。見たことを思考し概念化されていないのです。お金をあげた人の心の中では、物乞いする人を邪魔だからどこかへ行って欲しいと思っているかもしれません。あるいは人間として尊重していないのかもしれません。
すぐにお金をあげるのではなく、貧しい人を知って、その人が自立して生活できるようになるためにはどのようにすればいいのかを考えます。その人が自立できるためには、職業につくための技術を身につけるような手助けが必要だという考えが生まれるかもしれません。そしてそれを促すための行動に移す。これが概念化して行為するということです。

道徳的な行為は
・本能や感情、個性や気質、体のあり方などから自由になること。
・自分の行為を愛すること。
・概念が動機になること。真理に近い概念は最も道徳的。

二元論的な考え方では
 人間は行為するとき必ず原因があると考えます。植物はまず種を蒔かないと根が出ません。根が出て花が咲きます。因果関係があるという考え方は自然の法則です。シュタイナーは自然の法則は人間にはあてはまらないといいます。自然の法則は法則なので行為の選択はできません。最初に原因がありその結果があるというのはもう決まったこととしてあります。人間は自分が行ったことがどのように影響するのかを考慮に入れて行為することが出来ます。行為の影響を考慮に入れることができるのです。
人間には自然の法則に従わざる得ない部分もありますが、思考して自由に選択することもできるのです。

 タインさんはこのことについても次のような話をしてくださいました。
お腹がすけば何かを食べるというのは私たちの持っている本能です。自然の法則です。ベトナムでは戦争中、たくさんの人が難民になって小船に乗って他の国を目指しました。船の上で飢えに苦しんでいたとき、死んだ人の死骸を食べて生き残った人たちがいました。
また、とても貧しい母子がいました。二人ともとてもお腹がすいて死にそうになっていました。パンは一切れしかありません。そのとき母親は自分の飢えを我慢してでもそのパンを子どもに食べさせました。
 私たちの中には本能に打ち勝ってでも、自分が飢えていても、子どもに食べ物を分けてあげることができる能力を持っているのです。


道徳的想像力
 私たちは見たものを思考し概念化しても、そのことを行為に移せないときのほうが多いのではないでしょうか。今、地球規模で環境破壊や温暖化が大きな問題になっています。何とか食い止める方法はないかと多くの人が考えています。しかし、私も含めて実際に行動に移すことはなかなか出来ません。行為に移せない人をシュタイナーは、「芸術作品がどのように作られなければならないか巧みに説明はできても、自分では何も生み出すことが出来ない批評家に似ている」と言っています。自分の理念を具体化するためには道徳的想像力が必要だといいます。道徳的想像力とは、自由な精神にふさわしい行動の源泉なのだと。行為に移すためには、どのようにすれば理念が実現するのかというイメージを持つことができなければなりません。具体的なイメージを持ち、それを行うんだという意志が必要です。シュタイナー教育では、想像力や意志を養うことに重きを置いているのもこのことが理由だったのですね。
# by higuchi1108 | 2007-03-03 13:09 | 自由の哲学

自由の哲学

個と類
 私たちは、生れると同時に人種や家族、男性、女性などどこかのグループに属しています。これらは、生まれたときに与えられたもので選択することはできません。一つ一つのグループにはそれぞれ特徴があります。自分の属するグループの特徴は自分自身も持っています。社会の決まりやしきたり、習慣といったものの影響を受けています。

 シュタイナーは類による評価がもっとも頑固に行われているのは性に関する事柄だと述べています。あまりにも相手の性の一般的特徴を見、個的な特徴を見ようとしないといいます。その中でも女は、女として生まれつき持っている課題や欲求の一般通念によってしばられていて個人の個性が尊重されていないと。女であるとは何を意味するかを決めるのは女自身でなければならないといわれます。シュタイナーが生きた100年前の状況のなかでこのような思想をもっていた彼に共感を覚えます。現在ではこういった固定概念はなくなりつつありますが、多くのアジヤの国やイスラム教徒の国では女はこうあるべきというものに縛られていると聞きます。日本でも最近まで男は外で働き、女は家事育児に専念するというのが一般通念でした。今は女性も外で働くことは一般的になっていますが、女性が子どもを産んでも働き続けていく困難さは今も続いています。ついこの間も、厚生労働大臣ともあろう人が、「女は子どもを産む機械だ。」といって物議をかもしていました。
 シュタイナーは、全人類の半数が人間にふさわしい生き方をする社会こそ、社会が進化していくために不可欠なのですと述べています。

 私たちは一人では生きていけません。どこかのグループに属さないで生活することは困難です。この社会の一員として生きていくためには、ルールや決まりがあり守らなければなりません。
 私たちは、個人として立ちたいと思う気持ちと類になろうという気持ちが二つあるように思います。子どもの成長を見てみますとこの二つの葛藤が常にあります。いわゆる反抗期といわれるものがその葛藤の現われなのではないかと思うのです。

 最初の反抗期は3歳ごろに訪れます。それまではなんでもお母さんにされるまま従っていたのが、お母さんが着せようとする服が気に入らないといって駄々をこねたり、自分では出来ないのにやりたいといったり、自分の思い通りにならないとひっくり返って泣きわめいたりします。3歳ごろになって自己意識が確立し個を主張するようになったのですね。保育園でもこの時期の子どもは、おもちゃの取り合いなどでよくけんかが起こります。

 4歳半を過ぎるころになると共同性というものを意識できるようになります。共同の場での身の振り方、自分はこうしたいけれど皆の中ではこうするということが分かってきます。それは、「大人がこのようにするのです。」と教えたから出来るようになったのではないと思うのです。子どもには個になりたいという思いと、皆と一緒に遊びたいという気持ちが二つあるのです。友だちと遊ぶためには自分を主張していたのでは一緒に遊べません。自分が欲しいおもちゃも譲り合って使わないと楽しく遊べません。「友だちと一緒に遊ぶことはとても楽しいこと。一緒に遊ぶためには、欲しいという気持ちを我慢して貸してあげなくては。」という気持ちが生まれてきたのだと思います。

 6歳ごろになると、ルールのあるあそびができるようになります。「こんな風にしてあそぼうよ。こうなったら負けだよ。」というように個人のルールではなくて、皆が決めたルールに従ってあそぶということが出来てきます。自分はこんなルールに従いたくないと主張していたのでは皆と一緒に遊べません。子どもたちは、そのルールに縛られて自由がないのではなく、遊ぶためにはルールがある方が面白いということが分かり、自分から進んでそのルールに従っているのだと思うのです。

 「友だちと一緒に遊ぶ」という当たり前のように思っていることの中には、いつも個人と共同性の葛藤があり、誰かに言われたからするというのではなく、自分の自由な意志でルールに従うということを可能にしてくれるものが含まれているのですね。子どもにとって、「共にあそぶ」ということの大切な役割をあらためて認識しました。

 子どもたちには、社会の決まりや規範も学んで欲しいと思っています。それらは社会で生きていくうえで必要なものです。これらを子どもたちに押し付けるのではなく、子どもたちが責任を負える範囲で、成長と共に少しずつ自由の枠を広げてあげることが大切なのではないかと思います。その場合、枠を広げる時期を間違わないようにすることが重要です。今、あまりにも早くから子どもを自立させようとしたり、いつまでも親の保護の中で押しとどめようとすることによる問題がたくさん出てきているからです。
 また,子どもたちの周りに道徳的な大人がいることもとても大切です。これは大人の責任が重いです。思春期の反抗の多くは、大人の不道徳な姿を目の当たりにしたものですから。成人したときにはすべての枠を取り払い、自分の意志で決めることができるようになることが理想の姿なのでしょう。

 個と類、これは大人になってもずっと続く課題です。タインさんはどちらか極端になってしまうことは健康的ではないといわれます。自分の好きなような生き方をしたいといって無政府主義になってしまったり、人の言いなりになって自分が無くなってしまうことも不健康な生き方だといいます。私たちは、いつも個と類の間にいて極端に偏ってしまわないようにバランスを保つことが大切なのだと。

 自由の哲学の講義を通して、「思考する」ということの大切さを学びました。また、私たちが自由に生きるためには、「自分の行為を愛すること。」という言葉もとても印象に残りました。シュタイナー教育の目的は、自分が何をしたいのかを見つけ出すことができる子どもを育てるのだということを聞いたことがあります。それが自由への教育といわれるところなのでしょう。

 最後にタインさんは、「この講義は私の解釈です。この講義を聴き、皆さん自身の解釈を考えてください。それは個々人で違っていてもいいのです。」といわれました。私は、いまだに自由の哲学の本は読みこなせていないし、タインさんの講義の内容も十分伝えられていません。ひょっとしたら間違ったことを伝えているのではという思いもあります。その点はどうかお許しください。

 「自由に生きる」ことは本当に難しいことです。誰かが指し示してくれた道を歩む方が楽です。自分で決めた道だと責任が伴います。うまくいかなくなっても誰かに責任をなすり付けるわけにはいきません。自分はいったい何がしたいのかを見つけることも容易ではありません。しかし、タインさんは、私たち一人ひとりは、自分のすべてを決断して生きていくことができます。自分の運命を作り出し生きていくことが出来るのです。このことは大きな仕事だけれど、すばらしい仕事でもあるのですと述べておられました。

     「人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。」



 「自由の哲学」の講義を終え、ギャザリングで発表した劇のシナリオです。
私が創作したものです。

                  人間には自由があるのか?
 
若者:
 私は自由を求めているのに、いつまで経っても自由だと思えません。お腹がすけば何か   を食べたければなりません。また、幼いときから父や母に「このように生きるのだ」と言われ大きくなり、その教えにいつまでも縛られています。私は自由を手に入れることが出来ないのでしょうか?

神 :お前はまだ眠っているのです。完全に目覚めていないから、自由になれないのですよ。

若者:え、それは一体どういうことですか?

神 :
 何かをするとき、どうして私はこれをするのだろう。どうして私はこれをしたいのだろう。と考えるのです。そうすれば目覚めることが出来るのです。

若者:まだよく分かりません。

神 :
 目覚めるというのは考えるということです。考えることによって、自分と世界を理解することが出来るのです。そのことによって自由が見えてくるのですよ。

若者:
 自分と世界のことを考える。そうしたら自分のこともわかって、世界のこともわかるのだろう。それがどうして自由につながるのだろう。

悪魔:若者、お前はいったい何を考えているんだ。

若者:
 私は、自由な人間になりたいのです。どうすれば自由を手にすることができるか考えているのです。

悪魔:はははっは…人間に自由などあるわけがないわ。

若者:神様は自由があるとおっしゃいました。

悪魔:それでは、お前は何も食べずに生きていけるのか?

若者:生きていけません。

悪魔:
 おまえは自由ではない。お前は朝7時に起きて、働きに出かけなければならない。お前は自由ではない。お前は隣のおじさんが嫌いだ。道であっても挨拶するのがいやなのに無理に挨拶しなければならない。お前は自由ではない。

若者:でも神様がよく考えたら、自由になれるといいました。

悪魔:生意気なやつ。神のところへ行って人間には自由などないことを知らしめてやろう。


悪魔:
 神よ。お前は人間に自由があるなどといったそうだな。ではすべての者が、好き勝手なことをしだしたら、世の中は犯罪者ばかりになるのではないか?

神 :
 人間は本当の自由を手に入れたなら、よい行いをすることが出来るようになるのですよ。誰からもどんなものにも束縛されない本当の自由は、その人のもの。その人自身が行うことはその人がとても好きなこと。その人自身が愛に満たされるのです。だから良い行いができるようになるのです。

悪魔:
 では、すべての者が「自分が、自分が」と自分のことばかり主張したら、世の中にはけんかがあふれ一緒に生活することなど出来なくなるではないか。

神 :
 一人ひとりの人間が、他の人に関心を持ち、他の人を知ることが出来たときにのみ、自分自身の個性も尊重されるのです。人間の本能や見せ掛けの義務感に従うような人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない人を排除するのです。自由な人は人に同意を求めたりしませ。行為への愛において生きること。他人の意志を理解しつつ生かすこと。これが自由な人間の理念なのです。

悪魔:
 お前の言うことは幻想に過ぎない。そんなものはどこにもない。人間は道徳的な役割を義務として受け取り、自分の意志や感情に逆らってでも社会のおきてに従うときにのみ道徳的でありるのだ。

神 :
 いいえ、自由な精神を持った人は、外から強制されたりしません。習慣やおきて、タブーなどの中にいつまでもとどまっていません。自由な人間である限りにおいてのみ、真の人間なのです。

悪魔:そんなことは理想に過ぎない。

神 :
 むろんそうかもしれません。でもこの理想は人間の中に必ずあるのです。今、外に現れてこようとしているのです。

悪魔:
 そんなにお前が偉そうにいうのなら、あの若者を自由な人間に導いてみろ。そうすればお前の言うことを信じてやろう。

神 :若者よ、本当にお前は自由な人間になりたいのですね。

若者:はい、神様。どうすればなれるでしょうか。考えるということはどういうことですか。

神 :
 かつて人間は、世界と一つでした。でも、人間の進化と共に世界から切り離されてしまったのです。私と切り離され、私にとって自然も他の人も「ただの物」になってしまいました。自然も人も物として利用した人間は、環境を破壊し、争いを起こし、利己的な人間になってしまったのです。「ただの物」になってしまった自然や隣人を再び私につなげていく作業をしなければなりません。それが考えるということです。考えるためには、そのものに関心を持ちしっかり観察しなければなりません。そのことを通してのみ、本当の姿が分かってきます。本当の姿が分かってくると私にとっては、それはもう「ただの物」ではなくなるのですよ。

若者:私にそんなことが出来るでしょうか。

神 :
 お前は、善になる可能性と共に悪の力も宿っていることを知らなければなりません。自由とは、人間の尊厳を表すもっとも普遍的な言葉です。しかし、どれほどの自由を求めようとも、そこにいたることは、悪との対決なくしては可能ではありません。お前の本能と戦うのです。お前の考えたことによって得られる知性がそれを助けてくれるでしょう。

全員で:
     行為の動機を意識せよ。
     私が行為するのは私がそれを愛しているからである。
     私を直接導いているのは、習慣や規範などではなく行為に対する私の愛である。
# by higuchi1108 | 2007-03-03 12:51 | 自由の哲学